第三話 赤い車の男
帰宅後、水輝は雫へ短いメッセージを送った。
「スカーフ、クリーニングが終わったら返します」
送信してから、しばらく画面を見つめた。
うざいと思われたくなかった。でも、気になって落ち着かなかった。結局、気が利いた言葉が浮かばず、差し障りのない内容だけにした。
寝る前、雫からもらった水を机の上に置く。
改めてラベルを拡大してみる。
採水地――N-88。
水輝は眉をひそめた。
『世界中のミネラルウォーターを調べてきたつもりだったが、聞いたことのない水だ』
検索をかける。
まともな情報は出てこない。
唯一ヒットしたのは、十年以上前に書かれた個人ブログだった。
そこには、こうあった。
「太平洋上には、地図に載らない島がある。そこには今までの常識を覆す世界が存在している。通称、N-88」
水輝は思わず鼻で笑った。
どう見ても都市伝説だ。
だが、机の上には、その「N-88」と書かれた水が実際にある。
海洋深層水なので、島と繋がる。
ボトルを手に取り、光に透かす。
ただの作り話には思えなかったが、根拠となる事実は見つからない。
喉の奥に骨が引っかかった気分のまま翌朝を迎えた。
雫から返信はなかった。
その翌日も、その次の日も。
既読にすらならない。
電話をかけても、すぐ留守番電話へ切り替わる。
三日目、水輝はとうとう警察署へ向かった。
事故の日に対応した警察官を探し出し、食い下がる。
「彼女と連絡が取れないんです。ご両親のことで、どうしても伝えなければならないことがあります。大至急、連絡を取ってください」
もちろん、そんな緊急の用事はなかった。水輝の作り話だ。
だが、作戦がうまくいき、三日後、面会の許可が下りた。
指定されたのは、都心の高級ホテルだった。
土曜日、午後一時。
ロビーのソファで待っていると、黒いスーツ姿の男が近づいてくる。
「森川水輝さんですね」
「はい」
「野際さんの部屋へご案内します」
男はそれ以上、何も言わなかった。
エレベーターは最上階で止まる。
案内された部屋の中には、雫と、もう一人の男がいた。
水輝の姿を見た瞬間、雫が椅子から立ち上がった。
「水輝さん!」
子どものように駆け寄ってくる。
その様子を見て、水輝は少し安心した。
聞きたいことは山ほどあった。
なぜ連絡が取れなかったのか。
なぜ国家情報局が動いているのか。
両親の事故は何だったのか。
だが、背後に立つ男の視線が気になった。
結局、水輝の口から出たのは――。
「あ、いただいた海洋深層水、おいしかったです。硬度を測ったら三百ミリグラム毎リットルを超えていました」
雫が一瞬ぽかんとしたあと、くすりと笑う。
水輝も、自分で言ってから少し恥ずかしくなった。
安全上の理由で雫のスマートフォンは回収され、代わりに連絡先の入っていない専用端末を渡されているという。
もちろん、外出はできない。
誰と会うかも管理されている。
雫自身も、なぜここまで厳重に管理されているのか、詳しくは知らされていないという。
ただ、事故について一つだけ、新しい事実が判明していた。
部屋の奥に立っていた男が一歩前へ出た。
ネイビーのスーツに銀縁の四角い眼鏡。
髪は七三に寸分の狂いなく分けられ、ポマードで艶々に固められている。
四十五歳ぐらいだろうか。
男は眼鏡の位置を人差し指で直すと、名刺を差し出した。
内閣官房国家情報局
田川圭介。
「車は故障したのではありません」
田川は抑揚のない小さな声で言った。
「外部からハッキングされました」
水輝の表情が固まる。
田川は続けた。
「野際さんのお父様を殺害するために」
数秒間、部屋の音が消えたように感じた。
「……殺害?」
水輝がようやく口にすると、雫が小さくうなずいた。
「それで、私も狙われるかもしれないから、ここにいろって言われて……ずっと部屋から出られないんです」
「いつから?」
「事故のあと、ずっとです」
一週間近い。
水輝は眉をひそめた。
雫にとっては、一日一日がひどく長いのだろう。
面会時間の終了を田川が告げた。
帰り際、水輝はクリーニング済みの水色のスカーフを差し出す。
「クリーニングに出しました。ありがとうございました」
「こちらこそ」
雫が受け取る。
スカーフの折り目の中には、小型の使い捨て端末が隠してあった。
スカーフを握った瞬間、雫の指先が一瞬止まった。
水輝は何も言わず、そのまま部屋を出た。
帰宅すると、水輝は事故車から回収したログデータの解析をはじめた。
警察へ渡す前に、念のためコピーを取っていたものだ。
解析を進めるうち、奇妙な通信履歴に気づいた。
車を乗っ取った命令は、一般回線から直接送られていない。
複数の匿名化経路を通過したあと、一度だけ、政府機関や大企業が利用する閉域ネットワークの認証を経由していた。
それだけで政府内部の犯行とは断定できない。
だが。
水輝はやけに口が重かった田川の顔を思い浮かべた。
おそらく開示された情報は氷山の一角だろう。
言えない秘密が沢山あるに違いないと思った。
言い知れない不安を感じた。
数時間後、メッセージが届く。
雫からだった。
「来週末、別の施設へ移されるみたいです。行き先は教えてもらえません」
水輝はすぐに返した。
「外へ出たいですか」
返信は、しばらく来なかった。
五分。
十分。
やがて画面に文字が浮かんだ。
「政府に守ってもらっているから、ここは安全なのかもしれません。でも、この状況、誰が見てもおかしいと思います。何が起きているのか何も知らされないまま、知らない場所へ連れていかれるのは、正直怖いです」
水輝はスマートフォンを置いた。
雫を連れ出せば、政府に逆らうことになる。
しかも、その行動によって、彼女を危険にさらす可能性もある。
一方で、政府が何かを隠しているのも確かだ。
国家の利益が絡めば、十八歳の少女一人の意思など簡単に後回しにされるかもしれない。
何より、警備が大げさすぎる。
水輝は迷ったが、雫の希望通りホテルから脱出させることに決めた。
二人は、チャットで脱出計画を立てた。
雫は、田川と交渉して、水輝と二人でホテル内のレストランで食事をする許可を取った。
当日、水輝は雫が持っているものと同じ型のハンドバッグを用意。
中には、ショートパンツ、Tシャツ、帽子、伊達眼鏡。
これらは、圧縮袋に詰めてバッグに詰め込んである。
食事中、テーブルの下でこっそりバッグを交換。
その後、雫は化粧室へ向かい、ワンピースから着替えた。
髪型を変え、帽子と眼鏡をつける。
鏡の中には、さっきまでとはまるで違う少女がいた。
雫は深く息を吸った。
そして、ホテルの廊下へ出る。
警備員の横を通る。
止められない。
エレベーターへ。
一階。
ロビー。
ホテルのエントランス。
外。
――出られた。
雫はあまりにも、スムーズに脱出することができたので、思わず笑いそうになった。
計画は成功した。
少なくとも、そこまでは。
タクシー乗り場を見た瞬間、笑顔が消えた。
長い列。
週末の午後で、十人以上が並んでいる。
列に並んでいると、背後からSPらしき男の声が聞こえてくる。
ちらっと振り返る。
数人の男がエントラスに向かってくる。
雫はタクシーを諦めて路上へ飛び出す。
七歳の時に、交通事故に遭って、両手、両足には、金属を入れれられた。
そのせいか、足は異常に早かった。
短距離なら、大人の男にも簡単には捕まらない自信があった。
ショートパンツの裾を翻し、人混みを縫うように駆ける。
そのときだった。
キィッ。
一台の赤い乗用車が、雫の目の前へ滑り込むように停車した。
後部座席のドアが勢いよく開く。
中から、金髪の中年女性が手を伸ばした。
鮮やかなピンクの柄物ワンピース。
遠くからでも目立つ。
「雫ちゃん! 早くお乗り!」
聞き覚えのある声だった。
雫は立ち止まり、車内をのぞき込んだ。
運転席の男が大きく手を振る。
五十歳前後。
薄くなった髪。
大きく前へ張り出した腹。
そして胸には、白い文字で、
『吉田インターナショナル』
と書かれた真っ赤なTシャツ。
「吉田や! 覚えてへんか? お父さんの友達や!」
雫は目を凝らした。
幼いころ。
両親に連れられて大阪へ行き、道頓堀で食事をした記憶が、ぼんやりと蘇る。
確かに、この派手な夫婦を見たことがある。
「お父さんからな、何かあったら雫ちゃんを頼むって言われてたんや」
吉田が叫ぶ。
後ろから男たちの足音が近づいてくる。
後部座席の女性も開いたドアから、身を乗り出す。
「事情はあとでええから! はよ乗り!」
雫は一瞬迷ったが、選択肢はないと思った。
雫は後部座席へ飛び込んだ。
「ありがとうございます。とにかく出してください!」
「任しとき!」
吉田がアクセルを踏み込む。
赤い車は警護員たちを残し、夜の街へ走り出した。




