第三話 祝賀会の話①
藤波様が静かに邸を後にされた後、自室の机に向かい、今日教わったことを忘れないよう紙に記し始めた。
次に先生とお会いした時、同じ過ちを繰り返して失望させてしまわないように……。
今の私にできるのは、それくらいしかない。
『めせんをさげない』
『うつむかない』
『いすはふかくすわらない』
真っ白な紙に並ぶ、拙いひらがなばかりの自分の字。
それを見つめていると、急に言いようのない恥ずかしさが込み上げてきた。
暁臣様から贈られた、宝石のように美しい装飾の筆箱と鉛筆。
それが、今の私にはあまりにも不釣り合いに思えてしまう。
こんなに綺麗な道具を持っているのに、私が書けるのは、幼い子のような、ひらがなだけ。
……いつか、私にも。
この真っ黒な鉛筆を使いこなして、凛とした漢字を書ける日が来るのだろうか。
まず、最初に覚えたい漢字。
真っ先に頭に浮かんだのは、やはり『暁臣』様のお名前だった。
園遊会で流麗な手つきでお名前を記されていた、暁臣様の筆跡。
筆を持つ指先の動きさえ、見惚れるほどに完成された美しさだった。
あそこまでの高みに辿り着けるなんて、到底思えない。
けれど……せめて、もう少しだけ。
いつか本当に、『五条すみれ』となる未来が来るのなら。
彼の隣に並んでも恥ずかしくない字を書きたい。
『婚約者』としてではなく、『妻』として名を呼ばれる日が来るのなら——なおさら。
大丈夫……明日も、明後日も、きっと頑張れる。
そう思い込みたい。
そうでなければ、怖くて立っていられない。
「すみれ様。殿下がご帰宅されました」
「今、すぐに行きます!」
控えていた女中さんの声に、顔を上げて答える。
机の上の紙をそっと重ね、筆箱の蓋を閉めた。
まるで今日の自分の必死さを隠すみたいに。
婚約が正式に決まってからと言うもの、朝はお見送りをして、夜は玄関まで暁臣様をお迎えにあがるのが日課になっていた。
——その日課があるだけで、私は今日もここに居ていいのだと思える。
重厚な扉が開き、最初に目が合った瞬間。
私を見つけた暁臣様の表情が、ふわりと春の陽だまりのように柔らかくなる。
その瞬間を見るたびに——ああ、今日もここにいることが許されているのだと。
心の底から安堵し、胸の奥がじんわりとポカポカしてくる。
……それは、泣きたくなるほど。
「おかえりなさいませ。暁臣様」
「あぁ。ただいま、すみれ」
……?
いつもならそのまま二人でお部屋へ向かうはずなのに、なぜか暁臣様が立ち止まり、私をじっと見つめている。
彼が注いでくれる視線が、蔑みの対象だった『左右で色の違う瞳』に向けられたものではないと分かっていても、やはり真正面から見つめられると戸惑ってしまう。
どこを見ればいいのか分からず、視線が迷子になる。
「……その服、想像していた以上に似合っているな」
「はぇっ……!?」
いけない。不意打ちすぎるお褒めの言葉に、変な声が出てしまった。
熱い火を押し当てられたように、頬が一気に熱くなる。
藤波様に、どんな時も俯かないようにと教わったばかりなのに……。
こんな熱い眼差しで見つめられたら、顔を上げ続けるなんて、とてもじゃないけれどできそうにない。
逃げたいのに、逃げたら『俯く癖』に戻ってしまう。
立ち尽くしたまま、どうしようもなくなってしまう。
すると、ふわりと——手袋越しではない暁臣様の素手が、私の頭に添えられた。
撫でるでもなく、押さえるでもなく、ただ『そこに置かれる』だけの温度。
それだけで、胸の奥がとろけそうになる。
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