第二話 安心できる人③
夜の静寂が包み込む執務室に、ノックの音が響いた。
ランプの灯が書類の縁を白く照らし、インクの匂いが薄く漂う。
「入れ」
短く応じると、扉の向こうから藤波が姿を現した。
昼間と変わらぬ、一点の乱れもない所作で深く一礼する。
足音すら立てない。——それが彼女の矜持なのだろう。
「本日のご報告を失念せぬうちにと思い、参りました」
「聞こう」
手元の書類から目を離さぬまま、先を促した。
言葉とは裏腹に、指先はわずかに硬くなる。
彼女が『報告』と言った瞬間から、胸の奥に嫌な予感が灯っていた。
「すみれ様は……非常に、素直でいらっしゃいます。驚くほどに」
藤波は一歩前に出ると、今日初めて言葉を交わした教え子の印象を淡々と語り始めた。
その声には、長年多くの貴家の令嬢を導いてきた教育者としての、冷静で、かつ慈悲深い響きがある。
だが、慈悲は甘さではない。——彼女は事実しか告げない。
「言われたことを、そのまま真っすぐに受け取られる。
私からの指摘も、評価も、すべてをご自身の価値に直結させておしまいになる。
それは妃教育においては類まれなる長所と言えましょう。
ですが——同時に、あまりにも壊れやすい」
過大評価も、甘い同情も一切ない。
藤波が下したのは、ありのままのすみれに対する真実だった。
「あの方は、ご自身にできないことがあると、それを努力不足ではなく『存在そのものの欠陥』だと認識しておられます。
根深い自己否定の闇を感じました」
思わず手が、止まった。
ペン先が紙に触れたまま、動かない。
……同じことを、感じていた。
すみれは決して聡明さに欠けるわけではない。
一度教えたことは確実に覚え、対話の機微も驚くほど繊細に感じ取る。
それなのに、根底にある自信のなさが、彼女の輝きをすべて覆い隠してしまっている。
まるで、自ら光を消すことが生き残る術だとでも言うように。
「……具体的には、どういうことだ」
「失敗した際、一切の言い訳をなさいません。
それどころか、助けを求めることさえ、選択肢にないご様子。
ただひたすらに、嵐が過ぎ去るのを待つように耐えることを、無意識に選ばれておられます」
『無華』として生まれ、存在自体を否定され続けてきた十八年間。
その年月が、すみれの心にどれほど重い足枷を嵌めているのか。
想像するだけで、喉の奥が苦い。
書類をデスクに置く乾いた音が、静かな室内に重く響いた。
その音でようやく、自分が息を止めていたことに気づく。
だが、藤波は視線を逸らさない。——逃がさない。
「殿下。教育をこのまま続ければ、外見の形はすぐに整うでしょう。
ですが——その前に、心が削り取られてしまう。
ご本人にその自覚が全くないのが、最も危険な状態でございます」
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