第二話 安心できる人②
言われるままに、数歩前に出る。
厚手の絨毯が足の裏を優しく沈める感触があるのに、裾が揺れるのが気になって、歩幅が小さくなる。
『歩き方すら分からない』と気づかされるのが、怖かった。
「……立ち方は、悪くありません。ですが、肩に余計な力が入りすぎです。それから……視線が低すぎますね」
指摘は淡々としていて、声に厳しい感情は混じっていない。
だからこそ、逃げられない。
事実だけが、静かに積み上げられていく。
「顔を上げなさい」
「……あ、はい……っ」
言われて、ハッとする。
怒鳴られたわけでもないのに、これまで虐げられてきた記憶が疼き、条件反射のように呼吸が苦しくなる。
胸の奥がきゅっと縮んで、視界が一瞬だけ暗くなる。
けれど、恐る恐る顔を上げると、藤波様はわずかに一歩、私との距離を取った。
——近づきすぎない。圧をかけすぎない。
「……よろしい。無理に堂々とする必要はありません。ただ、俯いて下を向く癖は、今後、少しずつ直していきましょう」
責められていない。
でも、明確に『直すべき点』として、事実を提示された。
顔を上げる……それは、私のこの『無華』の瞳を、他人に見られ続けると言うこと。
どうしてもその恐怖が拭えず、私は指先を無意識にワンピースの裾に這わせた。
布地が、私の爪に小さく引っかかる。——落ち着け、と言われているみたいに。
「では、椅子にお掛けください」
言われた通り、椅子の前に立つ。
けれど、いざ座ろうとすると、ここから『どう腰を下ろすのが正解なのか』がわからず、一瞬、思考が止まってしまう。
立ったまま固まる私を、藤波様は急かすことなく、ただ黙って見守っている。
視線も、呼吸も、乱れない。
——待たれている。
待たれることなんて、今までほとんどなかった。
遅ければ殴られ、迷えば責められ、できなければ切り捨てられてきたのに。
だから余計に、怖いのに……少しだけ、救われる。
一呼吸置き、意を決して、ぎこちなく椅子に腰を下ろした。
座った瞬間、背中の汗が冷たくなる。
「……今は、それで結構です」
「……はい」
今は、それでいい。
それは、あくまで初日の今日だから許された座り方だ。
本当に求められている、お妃としての優雅な所作——
藤波様のような、指先まで神経の行き届いた動きなど、今の私にできる日が来るのだろうか。
あまりの道の遠さに、一瞬、眩暈がした。
遠すぎて、目を逸らしたくなる。けれど、逸らせばまた俯く癖に戻ってしまう。
「すみれ様。できないことは、恥ではありません。できないことを、できないままにしておくことが、問題なのです」
その言葉は、冷たい叱責でも、甘い慰めでもなかった。
ただ、真理を突いた事実。
だからこそ、胸に刺さった。
『できない』と笑われたことはあっても、『できないままにしておくな』と言われたのは初めてだったから。
「本日の拝見はここまで。次回も、少しずつ参りましょう。お疲れ様でございました」
「ありがとうございました……っ」
深々と頭を下げると、藤波様は再び一礼をして去っていった。
扉が閉まった後も、私はしばらくの間、椅子に座ったまま動くことができなかった。
足先がじんじんして、呼吸だけがやっと整っていく。
怖かった。けれど——。
……思っていたより、ずっと、親切だった気がする……。
怒鳴られもしなかった。
役立たずと見下されもしなかった。
一番恐れていた『お前のような無華に、教えることなど何もない』と言う拒絶の言葉も、なかった。
張り詰めていた胸の奥で、小さく、固い結び目がほどけていく。
これなら。もしかしたら。
——暁臣様が信じてくださるように、少しずつなら、進めるかもしれない。
その『少しずつ』を、私は今日、初めて自分の言葉として思えた。
そんな前向きな自分に、私自身が一番驚いていた。
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