第二話 安心できる人①
今日は、初めてのお妃教育の日。
今朝、お仕事へ向かう暁臣様を玄関で見送った時のこと。
彼は私の震える指先に、そっと自身の大きな手を重ね、耳元で低く囁いてくださった。
『——案ずるな、すみれ。大丈夫だ』
暁臣様の低く落ち着く声の残響が、今も耳の奥に心地よく残っている。
大丈夫、きっとがんばれる。
落ち着いて、少しずつ。
何か一つ、小さなことだけでもいいから、今日と言う日で覚えられるように。
……そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥の鼓動だけが正直に速くなる。
初日と言うこともあり、今日は動きやすさを考えて、人生で初めてお洋服に袖を通した。
暁臣様が私のために選んでくださった、淡いすみれ色のワンピース。
『わんぴーす』と言うその響きさえ、私には宝石の名前のようにキラキラして聞こえる。
布地に触れた指先が驚くほど滑らかで、思わず何度も撫でてしまった。
鏡に映る自分は、まるで別人のよう。
驚くほど柔らかく、風を孕むように軽い布地。
薄い色が肌を明るく見せ、首元の線さえ、少しだけ上品に見える気がする。
けれど、そのお洋服の軽やかさに反して、私の心には鉛のような緊張がずっしりと重くのしかかっていた。
背筋を伸ばそうとするほど肩が固くなり、呼吸が浅くなる。
コン、コン、コン。
静まり返った部屋に、控えめなノックの音が響く。
心臓が音を立てた。——まるで、私の方が叩かれたみたいに。
「……はい、どうぞ」
緊張で上擦った声で応えると、ゆっくりと扉が開いた。
現れたのは、一人の年配の女性。
白髪に近い髪を一点の乱れもなく結い上げ、深い紺色の着物に身を包んでいる。
華美な装飾は一切ない。けれど、だからこそ、余計に隙がない。
「失礼いたします。本日より、すみれ様のご指導を任されました——藤波と申します」
名乗り終えると同時に、音も立てず、深く滑らかな一礼をされた。
その所作があまりにも美しく、凛としていたため、私は反射的に自分の背筋を正していた。
……正しても、正しきれない。体のどこかが、まだ怯えて縮んでいる。
「……すみれ様ですね」
ただ名前を呼ばれただけなのに、心臓がひゅっと縮み上がる。
『名を呼ばれる』と言うだけで、何かを命じられる気がしてしまう。
「は、はい……朝霞すみれです。あ、あの……よろしく、お願いいたします……っ」
案の定、声は情けないほど震えてしまった。
きっと、この高潔そうな方にはすべて見透かされてしまう。
私に学がないことも、育ちが悪いことも、何一つまともにできないことも、全部。
そして何より——私が『無華』であることも。
藤波様は私を一度、上から下までゆっくりと見つめた。
それは、私を値踏みして蔑むような視線でも、欠落を哀れむような視線でもなかった。
ただ静かに、目の前にある事実をありのままに確認するような、透明な眼差し。
その透明さが、逆に怖い。逃げ道を塞がれるみたいで。
「……本日は、試験などはいたしません」
その言葉に、内心で小さく息を呑む。
試験——点をつけられ、できないと断じられ、切り捨てられる。
そんな未来を勝手に描いていたから。
「まずは、すみれ様がどのように立ち、どのように座り、どのように物を扱われるのか。それだけを拝見させていただきます」
逃げ場のない宣告。
けれど、不思議と突き放されたような感覚はなかった。
『裁く』のではなく、『知る』ための言葉に聞こえたのだ。
「失敗しても構いません。ただし、自分を大きく見せようと誤魔化す必要も、急ぐ必要もございませんよ」
彼女はそう言うと、部屋の中央へと視線を促した。
その仕草一つで空気が整う。——まるで、見えない糸で場を支配しているみたいに。
「では……こちらへ」
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