第一話 隣室のはじまり④
「すみれ。よく聞いてくれ」
暁臣様は、私の視線を逃がさないように、静かに言った。
「俺は、すみれが今のままであっても構わないと、本心から思っている」
大きな手が、私の震える手をそっと包み込む。
手袋越しではない温度。
掌の熱が、冷え切った指先を溶かしていく。
私は反射的に指を引きかけて、——引けない。引きたくない。
そんな自分に気づいて、また胸が痛くなる。
「ただ、やはり世の中には煩い連中がいるのも事実だ」
手を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。
守るための力だと、わかる。
わかるのに、それが嬉しくて、怖い。
「そこで……正式に家庭教師を呼び、妃教育を受けてもらおうと思っている」
「……きさき、きょういく……」
「ああ。茶道、華道、香道、書道の他に、中等教育に準ずる知識と教養。そして宮中での立ち居振る舞いだ」
教育……。
すべてが無駄だと、なんの価値さえないと撥ね除けられてきた私に、知識と教養を……?
世界の輪郭が、今までより少しだけ広がる気がして、眩暈がした。
「あ、あの……先日、暁臣様のお母様とお姉様にお会いした時、私は何か粗相をしてしまったのでしょうか?」
「いや。あんなものは瑣末なことだ。気にする必要はない」
けれど、あの時は何を聞かれても上手く言葉が出ず——結局、ほとんどすべてを暁臣様に代弁させてしまったのだ。
そのせいで暁臣様が親族から責められたり、評価を落としたりするようなことがあったとしたら。
そう思うと、申し訳なさで仕方がなくなる。
いっそ消えてしまいたい、とすら思ってしまう。
なぜ私は、こんなにも無力なのだろう。
でも——もし、その『お妃教育』とやらを受けることで、少しでも知識を身につけることができたなら。
いつか、今よりもほんの少しだけ、胸を張って暁臣様のお側にいられるようになるだろうか。
この方が差し出す手を、怖がるだけではなく、きちんと握り返せるだろうか。
「……これは形式の話だ」
暁臣様が言い切る。
その声には、迷いがない。
「俺がすみれを、誰にも文句を言わせぬ立場で守り抜くための盾だと思えばいい」
「あの……私……」
「ゆっくりで構わない。すべて、すみれの歩幅に合わせよう」
歩幅。
その言葉が、胸に落ちた。
焦らなくていいと、逃げなくていいと、言ってもらえた気がしたから。
本当は、怖い。
この邸の外にいる人々に、私の瞳を見られるのも、『無華』だと知られるのも。
期待に応えられなかった時、『所詮は無華だ』と落胆される瞬間を想像するだけで、足が震える。
それでも。
私の未来を誰よりも案じてくださる暁臣様のために、私が努力を惜しむ理由なんて、どこにもない。
努力など、したことがない私だけれど——今は、したい。
この方の隣に立つ資格を、少しでも自分の手で掴みたい。
「私……受けてみたいです。至らないことばかりで、ご迷惑をおかけすることも多いかと思いますが……」
「迷惑なものか」
即答だった。
その短さが、優しさよりも強い確信に聞こえてくる。
私の拙い決意を聞いた暁臣様が、嬉しそうな顔を見せた。
その微笑みを見た瞬間、心の底から思った。
このお方の笑顔のためなら、どんな困難も乗り越えていける——と。
この時は、本当に……そう信じて疑わなかったのだ。
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