第二十五話 金色の広間と視線②
目的地が近づくにつれ、私の鼓動は早鐘を打ち始め、無意識のうちに暁臣様の手を強く、強く握り返してしまう。
すると暁臣様は、咎めるでもなく、ほんの少しだけ指に力を返してくださった。
——大丈夫だ、と言うみたいに。
「……千鶴も登城しているはずだが、控室も広間までの動線も、決して接触せぬよう手配は済ませてある」
「千鶴様……」
「信子殿も安心してほしい。万全を期している」
「はい。多大なるご配慮、心より感謝申し上げます」
千鶴様……。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がズキリと疼いた。
彼女は心から暁臣様をお慕いしていたはずだ。
そして暁臣様にとっても、かつては大切な親戚の一人だったに違いない。
それを私の存在が壊してしまったのではないかと言う罪悪感が、新年の冷たい風のように心を吹き抜ける。
けれど同時に、暁臣様が『接触しない』ように動いてくださっている事実が、胸を締め付けた。
私を守るために、誰かを遠ざけている。
その重さを、意味を、私はきちんと受け止められるのだろうか。
周囲に満ちる大勢の人々のざわめきと、香水の入り混じった高貴な香りに気圧されながら、暁臣様に導かれて控室へ向かう。
視線が、刺さる。——見られている、比べられている、値踏みされている。
そう思うほど、背中が冷えていった。
「……ここから先は、控室が別々になる。……大丈夫か?」
「え……」
「中には母上と姉上がおられる。信子殿、すみれを頼む」
「はい。お任せくださいませ、殿下」
暁臣様の背中が遠ざかっていくにつれ、足元からじわじわと暗い気持ちが這い上がってくる。
いけない、しっかりしなくては……。
これから先、こうした場面は幾度となく訪れるのだから。
私は自分に言い聞かせるように、精一杯背筋を伸ばした。
重い扉が開かれると、そこにはすでに暁臣様のお母様とお姉様のお姿があった。
一瞬だけ膝が笑い、中に入るのを躊躇ってしまう。
けれど、本番はこれからなのだ。ここで退いては、暁臣様の顔を泥で塗ることになる。
「……本日は、よろしくお願いいたします」
掠れるような声を押さえ込み、ゆっくりと、藤波様に教わった通りの角度でお二人に頭を下げた。
視界の端で、袖の松と梅が静かに揺れる。
自分の呼吸の音さえ、大きく感じた。
「その着物、とてもよく似合っていますよ」
「柄も色も、元旦にぴったりね」
婚約のご挨拶の時以来、久々の再会だったけれど、お二人の眼差しは記憶にあるよりもずっと柔らかかった。
勝手に緊張して、お二人に嫌われてしまったのではないかと勘ぐっていたけれど……それは私の独りよがりだったのかもしれない。
少しだけ強張っていた心が、その温かな言葉にほどけていく。
ほどけた隙間から、——『よく似合っている』と、今朝の暁臣様の声が蘇った。
小さく息を吸い、もう一度だけ、胸の奥で自分に言い聞かせる。
今日は、逃げない。暁臣様の隣に立つのだ、と。
信子さんに促され、お二人の傍らで静かに呼ばれるのを待つ。
やがて、広間へ移動するよう係の者が告げた。
流されるまま、重厚な廊下を歩き始める。
足音さえ吸い込まれていくような、異様な静けさだった。
前を行く高貴な方々の背中を見つめながら、私はふと我に返る。
これから、この国で最も高貴な方にお目にかかる……。
お会いするのは二度目になるけれど……。
『無華』と呼ばれ、何の価値もないと捨てられた私が——どうして、こんな場所に立っているのだろう。
辿り着いた広間は、私の想像を絶する広さだった。
床は鏡のように磨き上げられ、壁も天井も、歴史の重みを感じさせる金色の装飾で眩いばかりに煌めいている。
数えきれないほどの視線が、針のように肌を刺す。
息を吸うだけで、胸がきゅっと縮んだ。
視界が狭まり、次の一歩が出ない。
少しずつ、お母様やお姉様との距離が開いていってしまう。
けれど——視界の端に、暁臣様の軍服の背中を見つけた瞬間。
磁石に吸い寄せられるように足が動き出した。
彼の隣に並び、一瞬だけ目が合う。
その刹那、ようやく肺に空気が入った気がした。
——大丈夫、と無言で言われたみたいに。
「五条暁臣殿下」
朗々と名が呼ばれ、暁臣様が一歩前へ進み出る。
私はその半歩後ろに、影のようにぴたりと付き従う。
背筋を伸ばし、息を整え、教わった通りに。
「新年、謹んで寿ぎを申し上げます」
暁臣様の深々とした一礼に合わせ、私も丁寧に頭を下げる。
不思議なことに、思ったほど不躾な視線は感じない。
今日の主役は私ではない。あの方をお祝いする場なのだから。
そう自分に言い聞かせ、ほんの少しだけ呼吸を取り戻した。
けれど——頭を上げ、正面を見据えた時。
ほんの一瞬、玉座の近くに立つお方と目が合った気がした。
けれど、その視線は、私の困惑を見透かしたかのように、すぐにふいと逸らされる。
ここに立たれていると言うことは、きっと雲の上の方に違いない。
やはり、この『無華』の瞳が珍しくて、奇異に映ったのだろうか……。
喉の奥が、ひりりと痛む。
退場の合図を受け、振り向く暁臣様に従ってその場を下がる。
背を向け、静かに歩み始めたその瞬間。
またしても背中に、誰かの強い視線がこびりつくような予感がした。
ぞくりと背筋に寒気が走り、私は思わず袖の中で指を握り締めた。
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