第二十二話 触れられるのは、私だけ②
「暁臣様。……百合に、今、何が起きているのか。……すべてを、教えていただきたいです」
私がそう言うと、暁臣様は一度だけ目を伏せた。
それから、ソファに深く腰を下ろし、両肘を膝に乗せる。
火の光が、彼の瞳の奥に複雑な陰影を落とした。
「すみれの妹……の『異能』が消滅したと言う話は、以前少しだけ触れたな?」
「……はい」
「現在も、彼女が病院に通っていると言う情報は、こちらにも届いている。あれから半年以上が経過したが——一度失われた『異能』が、再び発現する兆候はない」
淡々とした言葉のはずなのに、胸の奥がぎゅっと潰れた。
やっぱり。百合があの場所で叫んでいたことは、すべて真実だったのだ。
「この事実は、俺と父上、そして陛下……あとは極僅かな、信頼の置ける人間しか知らない」
「私……っ。奪うつもりなんて……。そんな恐ろしいことができるなんて、自分でも知らなかったんです……」
「もちろん、わかっている。お前がそんなことを望む人間ではないと、誰よりも俺が理解している」
『無華』であるはずの私が、こんなにも残酷な力を持っていたなんて。
それを知らずに、私はのうのうと生きてきたのだ。
なぜ、今までもっと踏み込んで聞こうとしなかったのか。
自分の無知が恐ろしい。
もっと早く、真実に向き合っておくべきだったのに。
自分で自分を制御できないと言うことが、これほどまでに恐ろしいなんて。
もし……このまま私が暁臣様のそばに居続けて、いつか『黒薔薇』さえも奪い去ってしまうようなことがあったら。
今、こうして触れていることさえ、許されない罪なのではないか。
私は、暁臣様の人生そのものを壊してしまうのではないか。
「あの、暁臣様。……百合に『華』を戻す方法は、本当にないのでしょうか?」
「……すみれの母親の遺骨に刻まれるはずの残穢すら消し去る力だ。恐らく、失われたものを取り戻す術は存在しない」
「……私は、どうしたら……。いつか、暁臣様の『黒薔薇』も、奪ってしまったらっ……」
私は元々、『無華』として生まれた。
最初から持っていなかったから、『華』がない状態が私にとっての日常だった。
けれど、百合は違う。
『あるはずのもの』が、一瞬で奪われる。
それがどれほどの喪失感であり、絶望であるか——想像するだけで息が詰まる。
まして百合は、これからも伯爵家の令嬢として生きていかなければならない身。
貴族社会において、『華』の有無や強弱は、そのまま家柄や個人の価値に直結する残酷な指標なのだから。
「すみれ」
暁臣様の手が、いつものように慈しみを込めて私の頬を撫でる。
その掌の温度が、怖いほど優しい。
もし、本当に私に相手の力を奪う能力があるのなら、私は全力でこの掌を拒絶しなければならない。
なのに——拒めない。
触れていたい。触れてほしい。
たったそれだけのことが、今の私には命綱みたいになっている。
暁臣様が近づく。
額が触れ、呼吸が重なる。
重なり合う唇は、これで三度目。
触れ合うたびに、暁臣様と言う存在が魂の奥深くまで溶け込んでくるのを感じる。
羞恥心よりも、欠けた器が満たされていくような静かな幸福感が、じわりと全身を支配していく。
やがて唇が離れ、額と額を寄せ合ったまま、暁臣様が囁く。
「いいんだ。もしその時が来ても……すみれになら、すべてを奪われても俺は構わない」
「暁臣様……」
言葉だけではない。
暁臣様は私の手を握り、指と指を複雑に絡め合わせる。
絡め取られるみたいに、逃げられない。
そして、その繋いだ手の甲に、熱い唇が落ちた。
「すみれ。もし万が一、お前が誰かに追い詰められ、身の危険を感じたなら……それがたとえ俺であっても、容赦なく奪え」
その言葉に、私は首を振ることしかできない。
『無華』として虐げられてきたからこそ、『華』を持てない、あるいは失うことの辛さは、誰よりも身をもって知っている。
大切な人ができるたびに、守りたいものが増えるたびに、失うことが怖くなっていく。
だからこそ、奪うなんて……できない。
まして、暁臣様からだなんて。
「他の誰よりも、俺の『黒薔薇』よりも、すみれのことが大切なんだ」
「……い、今は、本当に大丈夫なのでしょうか?」
「ああ。今こうして肌を合わせている分には、『異能』が無くなるような感覚はない」
「良かった……本当に、良かったです……」
声が震え、堪えきれず瞳の奥が熱くなる。
こぼれそうになる涙を誤魔化すように瞬きを繰り返すと、暁臣様の指先がそっと目尻をなぞり、落ちかけた雫を拭った。
「……泣くな。すみれが怯える顔は、もう見たくない」
「でも……私が、百合の人生を……」
「お前は奪うために生きてきたわけじゃない。お前は、ただ生き延びてきた」
その言葉が胸に刺さって、痛いのに、少しだけ救われた。
胸の奥の結び目が、少しだけほどける。
けれど、安心した瞬間に、別の感情が顔を出す。
千鶴様の邸で、暁臣様が扉を破壊した時。
周囲の人々は、その圧倒的な破壊の力を秘めた暁臣様の掌を、恐ろしい物を見るような目で怯えながら見つめていた。
『よほど人の『華』が羨ましかったのね。本当に卑しいったらないわ』
百合の吐き捨てた言葉が、呪いのように頭の中で反芻される。
彼女の言う通りだ。私はなんて、浅ましくて醜い女なのだろう。
もし——もし、私が暁臣様の『黒薔薇』を完全に奪い去ってしまったら。
この方は普通の人間になり、誰もがこの掌に怯えず触れられるようになるだろう。
けれど今、この瞬間だけは。
『黒薔薇』を宿したままの彼の掌に触れられるのは、世界で私一人だけ。
恐ろしい独占欲と、濁った嫉妬心。
暁臣様の、孤独な特別さを——自分だけが共有していたいと願う。
こんなにも歪んだ、おぞましい感情を抱いてしまったなんて……。
もし暁臣様に知られたら、今度こそ軽蔑されてしまうかもしれない。
その恐怖を抱えながら、私は彼の手を、祈るように、より強く握り返すことしかできなかった。
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