第二十二話 触れられるのは、私だけ①
「どうした、すみれ。……顔が真っ青だぞ」
「あ……いえ……」
邸に着くと、暁臣様はすでに帰宅されていて、心配そうに出迎えてくださった。
出かける前、私はあんなに胸を躍らせていたのに。
暁臣様も、私を快く送り出してくださったのに。
——ただいまと言うだけで、胸が詰まってしまう。
「すみれお嬢様。本日は、私はこのまま失礼いたしますね」
「あ……待ってください、信子さん」
別れ際、私ははっとして、袂に忍ばせていたもう一つの包みを思い出した。
今、これをお渡ししなければ。
『今日』のうちに形にしなければ、私はまた言葉を飲み込み、逃げてしまう。
「あの……信子さん。これ、先ほど百貨店で……その、選ばせていただいたんです。受け取っていただけますか?」
「私に、ですか?」
「はい。信子さんに、きっとお似合いだと思って。……水仙が描かれた、小さな帯留めです」
「水仙、ですか……?」
今日、どれほどの迷惑をかけてしまったか。
こんな小さな贈り物一つで、帳消しにできるはずがない。
しかも暁臣様にいただいたお金で買ったものだ。
それでも——ほんの少しでも、感謝と謝罪を形にしたかった。
これを見つけた時、視線の先で、少し離れて見守ってくれる、信子さんにとてもお似合いだと思った。
私が『ここにいていい』と許された時間の重みを、信子さんに伝えたかった。
「……ありがとうございます。とても嬉しいです。次にお伺いする時、早速使わせていただきますね」
「次……」
「はい。また、来週お伺いしますわ。楽しみにしております」
こんなことがあっても、信子さんは『また来週』と微笑んでくださる。
その笑みが、胸の奥の硬い塊を少しだけ溶かした。
私は車に乗って去っていく信子さんを、その姿が闇に溶けて見えなくなるまで見送り、重い足取りで邸の中へ戻った。
「すみれ。……信子殿の『華』がなんであるか、知っていたのか?」
「いえ……聞いたことはありませんでした」
言われて初めて気づく。
彼女がどんな『華』を持ち、どんな力を持っているのか。
当たり前のようにそばにいてくれることに甘えて、私は何も知らずにいた。
「知らなかったか。信子殿の『華』は『鈴蘭水仙』だ」
「すずらん、すいせん……」
「彼女の『異能』は、『耳』の良さだ。聴覚が常人に比べていくばくか鋭い」
耳の良さ……。
その瞬間、過去のいくつもの場面が一本の線で繋がった。
暗い蔵の中で泣き伏していた、幼い私の微かな声に気づいてくれたのも。
千鶴様の邸で、障子越しの密談をいち早く察知してくれたのも。
暁臣様が迎えにきてくださった足音を、誰よりも早く聞きつけてくれたのも。
——全部、偶然じゃなかった。
信子さんの『異能』が、私を守るために働いていたからだったのだ。
危険を先に拾い上げ、私が壊れないように支えてくれていた。
「私……。信子さんに、ずっと守られてばかりだったんですね」
「俺からも、改めて礼をせねばな。俺が迎えに行くまで、幼いお前を繋ぎ止めてくれた」
暁臣様の低い声が、静かに胸へ落ちる。
本当に、私はいつも誰かに守られ、生かされている。
だからこそ。
いつか、少しずつでもいいから、私も誰かを守れる人になりたい。
借りたままの温もりを、同じ形ではなくても返せるようになりたい。
それが私に課せられた、一生の宿題なのかもしれない。
「……それで。買い物は、あまり楽しくなかったのか?」
「あ……いえ……その……」
「後で榊原にも報告させるが……俺には、言い難いことか?」
暁臣様の声は静かなのに、逃げ道を塞ぐみたいに真っすぐだった。
隠しても、いずれ榊原様から伝わる。
それなら——私の口から言うべきかもしれない。
百合に言われたことを、どう聞くべきだろうか。
私に必要な真実であれば、暁臣様は隠さずに教えてくれるはずだ。
逆に、言わないと言う選択を暁臣様がしているのだとしたら。
それは、私の傷つきやすい心を案じて、敢えて伏せてくださっているのかもしれない。
それでも——。
もし、本当に私に『華』を奪うような恐ろしい力があるのだとしたら。
知らないうちに、また誰かを不幸に陥れてしまわないように。
私は、真実を知る義務がある。逃げたら、同じことを繰り返す。
「……街で、妹の百合に会ったんです」
「何!?またあいつら、すみれに接触を……。あれほど警告したと言うのに」
「いえ!きっと偶然です……。百合は、病院に通っていると言っていました。それに……」
『奪った』と、百合は言った。
『返せ』と、叫んだ。
——その言葉を思い出した瞬間、私の喉がひゅっと縮む。
暁臣様の眉間に、深い皺が刻まれる。
暖炉の火の揺らぎが、その険しさをいっそう際立たせた。
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