第二十話 初めてのプレゼント①
机の引き出しの奥に大切にしまってある、小さな革のお財布をそっと手に取る。
掌に馴染む柔らかな感触と、予想以上のずっしりとした重み。
『そうだな。すみれが自由に使える金についても、近いうちに渡そうと考えていた』
暁臣様はあの時仰った通り、毎月決まった額のお金を私に渡してくださる。
これまで、特にほしいものもなかった。
だから、一緒にいただいたこのお財布の中へ、受け取るたび大事にしまい込んできた。
中身を改めて数えたことは一度もない。
怖かったのだ。
自分が持ってはいけないものを持っている気がして、数字にしてしまうと現実になってしまいそうで。
それでも、確かにそこには重みがある。
『私のために』与えられた重みが。
けれど今——私には、どうしても手に入れたいものがある。
誰かに与えられるのを待つのではなく、自分の意思で選び、自分の手で買いたいものが。
「……あの、暁臣様。以前、信子さんとお買い物に行きたいとお話ししたかと思うのですが……」
「信子殿と?」
「はい。それで、次回信子さんがいらした時に、少し外出をさせていただきたくて」
「……俺とではなく、信子殿と、か?」
「え……?はい。信子さんと」
夕食の席で勇気を出して切り出してみたものの、暁臣様はなんだか少しだけ不満そうな顔をされた。
やっぱり……勝手に千鶴様の邸へ行ってしまった件があるから、許可してくださらないのかもしれない。
私の心臓が、トクン、と跳ねる。
「……ダメ、でしょうか?」
「いや、問題はない。だが、二人だけで出かけさせるわけにはいかないからな。榊原を付けるが、それで構わないか?」
「はい!大丈夫です。ありがとうございます」
ほっと息が漏れそうになるのを、必死で堪えた。
嬉しい。
許されることが、こんなにも嬉しいなんて。
算術も少しずつ習っている。
算盤の玉を弾くのも、ようやく慣れてきた。
きっと、自分でお買い物もできるはず。
手持ちのお金で、何が買えるだろう。
初めての経験に、喉の奥が詰まるほど緊張する。
けれどそれ以上に、胸が高鳴って仕方がなかった。
これが……知識を持ち、できることが増えると言うこと。
世界が少しずつ、自分に心を開いてくれるような感覚。
私もまた、世界に手を伸ばしていいのだと思える感覚だった。
榊原さんが運転する車の後部座席に揺られ、まずは信子さんのご自宅へ向かう。
シートの革が微かにきしみ、エンジンの低い唸りが胸の奥に響いた。
「あの、榊原様。今日買うものは、暁臣様には内緒にしておきたいんです」
「内緒、ですか?」
「はい。もし暁臣様から何か聞かれても……その、上手く濁していただけませんか?」
「承知いたしました。私の方からは、殿下に尋ねられてもお答えしないようにしますね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
頷いてくださるだけで、肩の力が少し抜けた。
『秘密』を持つことが、こんなにもどきどきするなんて。
車窓から見える街並みは、すっかり紅葉が色づき、黄金色や燃えるような赤に染まっている。
風が吹くたび、葉がひらりと舞い、陽に透けてきらめいた。
ほんの一年前、蔵にいた頃は、徐々に寒くなるこの季節がただ怖かった。
指先が冷えるたび「また閉じ込められるのでは」と怯え、冬の匂いさえ苦手だった。
けれど今、こうして見つめる秋の景色は、眩いほど美しい。
たった一年で、世界の見え方がこんなにも変わってしまうなんて。
暁臣様が、私の視界を塗り替えてくれたのだ。
そして私も、少しずつ自分の手で色を重ね始めている——そう思えるようになってきた。
信子さんと合流し、重厚な扉が開かれた百貨店へと足を踏み入れる。
以前、暁臣様と訪れた時は、特別なサロンがある階へと直接案内されてしまったけれど、今日は違う。
人の波の中に混ざり、自分の足で進む。
それだけで胸がざわつくのに、どこか誇らしい。
エントランスに掲げられた大きな案内板を見上げる。
けれど……そこに並ぶ細かな文字の半分以上が、まだ読めない。
できることが増えたと思っていたのは、私のうぬぼれだったのかもしれない。
現実は、まだこんなにも遠い。
一歩進んだと思ったのに……まだまだ自分の足りなさを突きつけられる。
「すみれお嬢様。本日は何をお買い求めになりたいんですか?」
「あの……実は、暁臣様のお誕生日プレゼントを……選ばせていただきたくて」
「まぁ!なんて素敵な。きっと殿下もお喜びになりますよ!」
信子さんの弾んだ声に、気恥ずかしさと嬉しさが混ざり合う。
けれど、立ち止まって文字を見つめる私の顔は、自然と曇ってしまった。
『贈りたい』と言う気持ちだけは誰にも負けないのに、肝心の入口で立ち尽くしてしまう。
「……あの、すみません。字が、まだ全然読めなくて。どの階に行けばいいのか……」
「大丈夫ですよ、お嬢様。お手伝いしますから、ゆっくり上の階から見て回りましょうか」
「はい。……お願いします」
信子さんの言葉に、胸の奥がふっと軽くなる。
私はまだ、助けてもらっていいのだ。恥ずかしがらなくていいのだ。
信子さんと並び、色とりどりの商品が並ぶ、魔法のようなフロアへと足を踏み出した。
信子さんに促され、絨毯の敷かれた階段を一歩ずつ上る。
外の喧騒が嘘のように、百貨店の中は煌びやかな空気と、香水の香りに包まれていた。
足音が吸い込まれるような静けさと、冬を先取りしたような暖かな空気。
どこか浮世離れした心地よさに、私は少しだけ肩の力を抜く。
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