第十九話 祝賀会の着物②
季節は足早に過ぎ去り、盛夏の面影が消え、風に肌寒さを感じるようになったある日のこと。
「こちらへどうぞ、すみれ様。花菱屋さんがお見えです」
案内されたお座敷に足を踏み入れた瞬間、視界が鮮やかな色彩に染まった。
以前と同じように、色とりどりの反物が川の流れのように美しく広がっている。
絹の光沢が重なり合い、まるで室内に季節が咲き乱れているみたいだった。
「五条家御用達を賜っております、花菱屋でございます。この度は、すみれ様の晴れ着をお任せいただき、心より光栄に存じます」
暁臣様は今日、どうしても外せない公務のために立ち会えないことを、朝からひどく残念がっていらした。
「俺が選んでやれればよかったのだが……」
眉を下げていた、あの表情が浮かぶ。
私も……本当は心細くて仕方がなかった。
一人でこの贅沢な空間に取り残されると、自分が場違いな存在であると言う現実が、胸の奥をちりちりと焼いた。
綺麗だ。眩しい。
そして——恐ろしいほどに高価に違いない。
この膨大な選択肢の中から、自分の意志で選ぶだなんて。
考えただけで頭がくらくらする。
逃げ道のない『選択』ほど怖いものはないと、私は知っている。
新年の祝賀会。
それは、五条家に嫁ぐ、暁臣様の婚約者として並んで公の場に出ると言う、避けては通れない儀式。
もはや、その前提を覆すことはできない。
『私がどう思うか』とは無関係に、世界は進んでしまう——そう思っていた頃の私とは、少し違うのに。
「新年の祝賀会用でございますから、普段のものよりも格を上げたお誂えになります」
『格』と言う言葉が、重い鉛のように胸に引っかかる。
どんなに素晴らしい着物を纏っても、『無華』である私が袖を通せば、その価値を台無しにしてしまうのではないか。
そんな卑屈な思いが、まだ頭をよぎる。
けれど、今さら『私には似合いません』と逃げ出せる立場ではないことも、今の私はもう知っている。
逃げれば楽になる。けれど、楽になったぶんだけ——大切なものも手放してしまう。
「殿下からは事前に、細やかなご指定を賜っております。『あまり華美にすぎず、しかし祝賀の場において決して埋もれぬもの』と」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。
暁臣様は、私を衆目の的にしたいわけでも、かといって私の存在を隠したいわけでもない。
ただ一人の女性として、誇りを持って隣に立たせようとしてくれている。
私が萎縮して消えてしまわないように。
そして、私が無理に背伸びして壊れてしまわないように。
その深い想いと信頼が、反物の説明を通じて伝わってくる。
「こちらなどはいかがでしょう。すみれ様の清廉な雰囲気に、とてもお似合いかと思われます」
差し出されたのは、白に近い、淡く柔らかな生成色の地。
窓から差し込む冬の手前の光を受けると、まるで新雪のようにしっとりと、やさしく光を反射する。
その上には、松と梅がごく細い金銀の線で描かれていた。
裾に向かって、小さな花々がひっそりと——けれど凛とした表情であしらわれている。
一見すると派手さはない。
けれど、近づいて見れば見るほど、細密な職人技に目を奪われ、心が吸い寄せられていく。
「……綺麗……」
思わず吐息とともに言葉が漏れた。
それは、許される言葉のように思えた。
「左様でございます。松は千年の長寿を、梅は寒さに耐え春を告げる兆しを。すみれ様のお名前にある小花は、あえて控えめに配置することで、お顔立ちをより引き立てる趣向となっております」
『控えめ』。
その言葉に、強張っていた心が少し救われる気がした。
私が目立ちすぎなくてもいい。
それでも、埋もれないように——支えてくれる人がいる。
「……とても素敵、ですね」
これなら、私が口にしても罰が当たらない気がした。
模様の一つ一つに込められた意味。
藤波様に教わった知識が、私の記憶の引き出しからふわりと浮かんでくる。
学んできたことが、ちゃんと自分の中で実になっている。
その小さな実感が、今は何よりも嬉しかった。
『私は空っぽではない』と、少しだけ思える。
「では、こちらを振袖に仕立てさせていただきます」
ふと、お金のことが頭の隅をかすめた。
きっと、一生かかっても払い切れないほどの金額。
けれど、ここで私が躊躇して立ち止まれば、暁臣様が守ろうとしてくれている未来まで崩れてしまう。
そっと、手を膝の上で固く組む。
震えを、隠すために。
「……よろしく、お願いします」
「かしこまりました。それと、新年のご挨拶回り用の訪問着をもう一枚、ご用意しております」
え……!?これだけではないの……?
驚く私をよそに、別の反物がさらりと差し出された。
今度は、春の訪れを予感させるような、淡く上品な藤色。
そこに清らかな流水と、舞い遊ぶ小さな蝶が描かれている。
「祝賀会ほど格式張る必要はございませんが、殿下のお連れとして不足のないお品でございます」
「……ありがとうございます。では、そちらも、お願いします」
藤色。
あの園遊会での出来事を思い出して、胸の奥が微かにざわめく。
けれど、今の私には信子さんも、藤波様たちも、そして暁臣様もいる。
一人で震える必要はないのだと、少しずつ学んでいる。
布の上に落ちる柔らかな光を見つめながら、祈るような気持ちになる。
この振袖を着て過ごす新しい一年が、どうか、どうか無事に過ぎますように。
そして——無事であるだけでなく、私が私として、笑えますように。
新しい年。新しい振袖。
それを纏い、暁臣様の隣で微笑む自分を、まだ少しだけ怖がりながら。
それでも私は、白銀の雪原を歩むような期待を、確かに胸に抱いていた。
冷たい空気の中に、きらりと光る道が見える気がした。
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