第十八話 甘やかな二度寝①
「あ……あの……暁臣、様……」
自室の扉を閉めると同時に、耐えきれず、すみれを腕の中に閉じ込めていた。
迷いなく抱き寄せたその身体は、驚くほど柔らかく——数日分の渇望を埋めるに十分な熱を帯びている。
彼女の体温が、骨の奥まで沁みる。
触れられると言うだけで、俺はこんなにも救われてしまうのか。
たった一週間ほど顔を合わせないだけで、己の理性がここまで脆く崩れ去るとは。
それを自覚していたからこそ、あえて突き放すように『休め』と言った。
……これ以上、求めてしまったら、止まれなくなると思ったからだ。
だが結局、彼女の健気な追走に、俺の決意など何の意味もなかった。
「……もう少し。このままでいさせてくれ」
独り言のように呟き、彼女の細い肩に顔をうずめる。
しばらくこの家を空けていたすみれからは、以前の淡い花の香りに加え、鷹宮邸の香の匂いが微かに混じっていた。
——あちらにいた。俺の目の届かない場所に。
その事実が、喉の奥に刺のように残り、独占欲を煽る。
自分でも呆れるほど浅ましい。
だが、抑えられない。
ふと、腕の中の『違和感』に気づいた。
いつもなら抱き寄せると、すみれは小動物のように縮こまり、身体を固くして緊張を露わにする。
だが、今は違う。
まるで俺の剥き出しの想いに応えるかのように、彼女は自ら背に手を回し、
俺の服をぎゅっと握りしめて——しがみついてくるのだ。
先ほど、鷹宮邸の廊下で抱きしめた時もそうだった。
彼女の中で、何かが変わった。
その変化が愛おしく、同時に恐ろしい。
必死に押し留めていた、男としての暗い欲望が制御不能になりそうで——俺はあえて、すみれの身体を一度だけ解放した。
「あ……」
「ん?どうした、すみれ」
「いえ……その、もう少しだけ……こうしていたかった、と……」
自分の口を手で覆い、耳の付け根まで赤らめながら、消え入りそうな声で要望を口にする。
彼女なりの精一杯の甘え。
そのあまりの愛らしさに、胸の奥が熱く疼く。
すみれの手を引いてソファに腰掛け、そのまま膝の上に抱え上げるようにして座らせる。
彼女の軽さが、胸に痛い。
「——すみれの、好きなように」
そう言って、両手を広げてみせた。
「え……?あ、あの……?」
やはり今のすみれには刺激が強すぎたか。
戸惑いの表情で瞬きを繰り返し、逃げ道を探すように視線を彷徨わせる。
だが、やがて俺の様子を上目遣いでじっと伺い、決心したように——小さな子猫のように、こてん、と俺の胸に額を預けてきた。
その重みが、たったそれだけのことが、堪え難いほど愛しい。
先ほどまでの荒れ狂うような欲は、依然として俺の中に居座っている。
だがそれ以上に、春の日差しのような穏やかな暖かさが、身体の芯からじわりと湧き上がってくる。
何にも代えがたいほど愛しい。
単に『俺の異能が効かない』と言う特異な体質ゆえの興味ではない。
あの日、井戸の脇に座り込むすみれを見た時から、すみれにだけは特別な感情を抱いていた。
——最初から、もっと根深いもの。
時間にして、数分だっただろうか。
「……っすぅ……」
やがて、腕の中のすみれの身体から、ふっと力が抜けた。
聞こえてくるのは、穏やかで無邪気な寝息。
一週間の極度の緊張。
そして今日の騒動。
よほど心身ともに疲弊していたのだろう。
張り詰めていた糸が切れたのだろうか。
俺の腕の中が彼女にとって『安全な場所』だと認識していることに嬉しくなる。
「……それにしても。この態勢で眠ってしまうとは……」
すみれにその自覚がないのは分かっている。
だが、この無防備な信頼は——時として残酷な試練のように、俺の理性を試してくる。
苦笑を漏らしつつ、すみれを抱き上げ、優しくベッドへ横たえた。
眠りを妨げぬよう細心の注意を払って着物の帯を解き、苦しくない程度に結び直す。
ふっと、彼女の寝顔が和らぐ。
それを見た瞬間、収めたはずの欲が——試すように、また顔を覗かせた。
掌で、滑らかな頬を一度だけ撫でる。
そして額に、そっと唇を寄せた。
いずれ、正しい知識と自信を得たすみれは、今よりずっと美しく輝くだろう。
あの日、予感した通りの『大輪の華』として開花するはずだ。
その姿を一番側で、誰よりも近くで見守りたい。
だがその反面——
俺だけの手の中で、誰の目にも触れさせることなく。
鳥かごに閉じ込めた美しい小鳥のように、自分だけがその歌声と羽ばたきを愛でていたい。
そんな独善的な欲望も、確かに俺の中に根を張っている。
この醜くも深い、相反する想いを知ったら、彼女はどう思うだろうか。
変わってほしくない。
今のままの、純粋で汚れのない彼女でいてほしい。
……けれど、俺がどれほど歪んだ眼差しで彼女を見つめ、渇望しているか。
今のすみれは、まだ想像だにしていないだろう。
「……おやすみ、すみれ」
時が来るまで。
黒く渦巻く情念を胸の奥底へと沈め、俺は静かに部屋の灯りを落とした。
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