第十七話 帰宅①
どうすれば、信子さんを無事にご自宅へ帰せるのだろう。
ただでさえ、私の我儘に付き合っていただくために、数日間もここで寝泊まりを強いてしまった。
その挙げ句に、このようなことに巻き込んでしまうなんて。
私はいい。
心配してくれる人の言葉を聞かず、こうなってしまったのだから——自業自得だ。
けれど、信子さんには待っているお子様がいる。
守るべき、平穏な家庭がある。
もう一度、千鶴様に心の底から懇願すれば……分かってくださるのではないか。
そう思おうとしてしまう自分が、また甘いのだろうか。
「ごめんなさい……信子さん。私の、私の身勝手な行動のせいで……」
「すみれお嬢様。……大丈夫です。そんな、泣きそうな顔をなさらないで」
信子さんは優しく微笑んで、私の肩を抱いてくれる。
その温もりが、かえって申し訳なさを増幅させた。
堪えきれなくなった涙が視界を滲ませる。
唇を噛んでも、止まらない。
——私が泣く資格なんてないのに。
「……!」
「信子さん?」
不意に信子さんが顔を上げた。
じっとドアの向こうの気配を探るように見つめ、やがて、ふっと安堵したような笑みを浮かべた。
「すみれお嬢様。もう、大丈夫です。間もなく、迎えがいらっしゃいます」
「お迎え……?」
その言葉を裏付けるように、廊下の向こうから騒がしい足音が聞こえ始めた。
怒号に近い、複数の声。
床が震えるほどの勢いで近づいてくる。
知らない人たちが力ずくで、私に『婚約破棄』を迫るために乗り込んできたのだろうか。
宮家と言う場所は安全だと——勝手に思い込んでいた。
けれど、今はどこも安全には見えない。
どうか、信子さんだけでも無傷でここから出してもらいたい——。
祈るように握りしめた拳に、力がこもる。
爪が掌に食い込み、痛みで自分を繋ぎ止める。
だが、その騒乱の中に。
私は聞き紛えるはずのない声を——確かに、聞いた気がした。
心臓が跳ねる。
重厚で、けれど絶対的な安心をくれる空気。
胸の奥が、ひどく熱くなる。
間違えるわけがない。
扉に駆け寄り、ドアノブを回した。
ガチャン、ガチャン。
虚しい金属音だけが響く。
やはり外側から鍵がかけられていて、扉はびくともしない。
すぐそこに、すぐそこにいるのに。
暁臣様が——。
「すみれ!そこにいるのか……!」
「暁臣様っ!」
「千鶴!今すぐ鍵を開けろ!!」
「暁お兄様……嫌です!開けませんわ、絶対に!」
外で何が起きているのかは見えない。
けれど千鶴様の叫び声が、彼女が本気で私たちを会わせまいとしていることを物語っていた。
その必死さが、逆に恐ろしい。
「すみれ。……扉から離れろ」
低く、けれど確かな意志を宿した暁臣様の声。
私は言われるまま、一歩、また一歩と扉から後退した。
直後。
分厚い木製の扉の中心から、じわりと黒く変色が広がり始める。
それは生き物のように侵食を続け、次の瞬間——
ザアッ、と砂が崩れるような音を立てて、扉が形を失い、霧散した。
視界が開ける。
舞い散る黒い塵の向こう側。
あれほど会いたいと願っていた人の姿が、そこにあった。
「っ……」
「すみれ……っ!」
名前を呼ばれるよりも早く、暁臣様の腕の中に吸い込まれるように抱き寄せられる。
数日ぶりに触れる、暁臣様の体温。
鼻をくすぐる、懐かしい香り。
それだけで、張り詰めていたものが一気にほどけていく。
これまでの私なら、ただ抱きしめられるまま、身を固くするだけだった。
触れてはいけない、迷惑をかけてはいけない——そんな癖が染みついていたから。
けれど——今、この時だけは違った。
私は自分から、彼の大きな背中に手を回す。
二度と離さないように、服をぎゅっと掴み、彼の胸に顔を埋める。
「ぁき……おみ、様……」
「もう大丈夫だ。……やはり、無理やりに連れ帰るべきだった。俺の判断が甘かった」
「いえ……私の、せいでです……」
暁臣様の胸の鼓動を感じながら、ようやく一息つけた気がした。
呼吸が、少しずつ、現実の速さに戻っていく。
視界の端には、扉が塵と化したこと。
腰を抜かし、怯える人たちの姿。
そして、冷たい床に崩れ落ちている千鶴様の姿が見えた。
「なぜ……なぜですの、暁お兄様……っ!」
「……黙れ。追って五条家から、正式な抗議と処分を伝える」
「千鶴は、高貴な宮家の女王ですのよ!?それを差し置いて……そんな、何一つ持たない『無華』を選ぶと言うのですか!?」
千鶴様の悲痛な叫びが、廊下に響き渡る。
あの方ほど気位の高い人が、これほどまでに醜く声を荒げるなんて——。
けれど暁臣様は、彼女と目を合わせることさえしなかった。
一瞥もくれず、ただ私の手を優しく取り、引いて歩き出す。
「だからなんだ。……他者から与えられただけの地位と言う名に、一体何の価値があると言うのだ」
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