第十六話 黒薔薇の渇き②
千鶴を……嫁に?
あり得ない。
それは、すみれがいるか居ないかの次元ではない。
千鶴では、俺の双蕊どころか——妃の器ですらない。
「どうしても、と暁お兄様が仰るのでしたら——すみれ様を側室にされても構いませんわ。殿方と言うのは、そういうものでしょう?」
「あり得ない。俺は側室を娶る気など、毛頭ない」
「なぜ?すみれ様はただの『無華』で、千鶴は『青薔薇』ですのよ?格も、血の濃さも——違いすぎますわ」
千鶴と言う『青薔薇』の娘が生まれたと鷹宮家から報せが届いた時、宮家の間で少なからず、『『黒薔薇』を継ぐ俺の婚約者に』そう囁かれたのは紛れもない事実だ。
だが、その後。
あらゆるものを塵芥に帰す『異能』が俺に発現したことで、状況は一変した。
どの家も、娘の身を案じるがゆえに、あらゆる縁談の打診は消え去った。
——正しくは、『娘を守るため』と言う大義名分で、俺から距離を置いた。
それでも千鶴だけは、気にすることなく懐いてきた。
俺はそれを、自分を慕う妹のような存在だと思っていた。
だが、まさか千鶴自身が、幼い頃に大人が口にした絵空事を、今でも本気で信じ込んでいるとは。
「千鶴。俺の『異能』は、座興や飾りではない。……その本質を知っているな?」
「もちろんですわ。王華である『黒薔薇』……暁お兄様にこそ相応しく、お似合いの『華』ですもの」
——違う。
千鶴は、おそらく本当の意味では聞かされていない。
俺の『黒薔薇』が、どれほど残酷で救いようのない絶望を孕んでいるかを。
そして、彼女の『青薔薇』程度の力では、俺が素手で触れればひとたまりもないことも。
百聞は一見に如かず、か。
俺は先ほど手袋を剥ぎ取ったままの、剥き出しの右手を持ち上げ、
目の前の卓上に置かれた白磁の茶器へ、ゆっくりと指先を添えた。
「——見ていろ」
触れた瞬間。
純白だった陶器は一息でどす黒く変色し、生気を吸い取られたように細かなひびが走る。
乾いた音が連なり、器は抵抗する暇もなく、ばらばらに崩れ落ちた。
もはや元の形を推測することすらできない、無惨な灰の塊。
注がれていた茶さえも、『ジュッ』と不快な音を立てて蒸発し、
白い煙が、弱々しく天へ逃げていく。
鼻を刺す焦げた匂いが、遅れて喉の奥に絡みついた。
——これが俺だ。
触れると言う行為が、破壊と同義になる身体。
誰かを守るために手を伸ばしたくても、その手が最初に傷つけてしまう。
「俺が触れた物は、無機物であっても例外なくこうなる」
「え……?」
「これがもし、血の通った人間ならどうなるか。……想像できるか?」
みるみるうちに千鶴の顔から血の気が失せる。
噂や知識ではない。
目の前で物質が『死に絶える』瞬間を、彼女は初めて目撃したのだ。
「触れた瞬間、肌には焼ける痛みが走る。俺の加減次第で、対象は今の灰と同じ運命を辿る」
俺は淡々と言い、砕け散った残骸へ視線を落とす。
「慈悲など、微塵もない」
「っ……でも!『無華』のすみれ様は、暁お兄様に触れられるのでしょう!?でしたら、『青薔薇』である千鶴だって……!」
確かに、強大な『青薔薇』を持つ者なら、わずかばかりの抵抗は可能だったかもしれない。
だが千鶴のそれは、『青薔薇』の中でも脆弱な部類だと聞いている。
拮抗するには、父上や天皇陛下以上の桁外れな力が要る。
——理屈を並べれば、そうなる。
だが。
そんな論理的な理由は、所詮、後付けの言い訳に過ぎない。
すみれと出会ってしまった今、この世のどこかに『触れられる青薔薇』が現れようが、そんなことはどうでもいい。
俺は、すみれにしか触れたくない。
すみれの熱だけを、この掌で確かめたい。
それが、俺が出した唯一の答えだ。
それでも千鶴は、唇を震わせながらも目を逸らさない。
『怖い』より先に、『正しい』があるのだろう。
宮家と言う檻の中で育った価値観が、彼女をここまで盲目にしている。
だが、盲目であろうと——現実は変わらない。
俺の手は、触れたものを壊す。
壊した後のそれは、元には戻らない。
「そこまで言い張るなら——『王華』と言われる我が『黒薔薇』の威力……その身をもって試してみるか?」
低い声で告げ、逃げ場を塞ぐように右手を伸ばす。
あと数センチで、頬に触れようかと言う距離。
「ひっ……!!」
千鶴は悲鳴を上げ、着物の裾で顔を覆い隠すようにして、ソファの端へ逃げるように身を寄せた。
わずかな隙間から覗く瞳は、涙を浮かべ、恐怖で引き攣り、俺を拒絶している。
己の異能を目の当たりにした後の、この視線。
そんなものは、とっくに慣れきっていたはずだった。
「千鶴。……それが、お前の答えだ」
もし、すみれにすら触れられなかったら。
彼女もまた、同じように俺を避け、怯え、拒んだのだろうか。
すみれと出会えなかったら——
俺は今も、双蕊となり得る『触れられる誰か』を必死に探し求め、足掻き続けていたのかもしれない。
触れたいのに触れられない。
ほしいのに、手に入らない。
そんな渇きだけを抱えて。
「もう一度聞く。すみれをどこへやった。答えろ」
言葉を吐くたび、胸の奥で黒い花弁がざわめく。
この場の誰も、俺の焦燥が『すみれへ向かう恐怖』だとは気づかない。
彼女が怯えているかもしれない——その想像だけで、理性が削れていく。
偶然、手が触れたことで、すみれだけには俺の『黒薔薇』が刺さらないと知った、あの日。
指先が彼女の肌に触れた瞬間、いつもなら走るはずの灼ける痛みが、嘘のように消えた。
代わりに、温かい柔らかさが掌に満ちて——俺は息を呑んだ。
触れても壊れない。
触れても、奪われない。
それがどれほど奇跡で、どれほど救いだったか。
あの一秒で、俺の世界はひっくり返った。
他者に拒まれる恐怖から解き放たれ、
肌を合わせ、気持ちを分かち合える悦びを——俺は初めて知った。
すみれなら、俺が伸ばした手を、少し照れながらも愛おしそうに受け入れてくれる。
そして、はにかむように、遠慮がちに俺を見上げる、潤んだ虹彩色の美しい瞳。
そのすべてが、狂おしいほどに鮮明に思い出される。
すみれ……今すぐ、お前に触れたい。
お前の柔らかな肌に触れ、この心の乾きを癒したい。
膨れ上がる焦燥は、もはや制御不能なほどに膨れ上がっていた。
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