第十六話 黒薔薇の渇き①
いつもなら、鷹宮邸にいる信子殿からの定時報告を携え、榊原が戻ってくる頃合いだ。
だが、今日はその戻りがずいぶん遅い。
嫌な予感が、冷たいものが這いずるような感触となって俺の背筋を撫でた。
時計の針が一つ進むたび、胸の奥の苛立ちが静かに増していく。
「殿下!ご報告を……。信子殿とお会いすることができず、引き返して参りました」
「なんだと?どういうことだ」
「鷹宮邸にて、門前払いを受けました。緊急の用件があるため、面会も取次も一切できぬと」
門前払い……?
千鶴は何を企んでいる。
信子殿が自らの判断で報告を怠るなど、あり得ない。
連絡が途絶えたと言うことは、彼女の性格を考えると、報告をしたくてもできない——
物理的に外部との接触を遮断されている、と言うことだ。
もし我が五条家の使用人を不当に拘束しているのだとすれば、これは両家の決定的な関係悪化、ひいては政治的な問題にまで発展しかねない。
そして何より——そこに、すみれがいる。
「榊原、すぐに車を出せ。今すぐ鷹宮邸に向かう」
「はっ」
榊原が踵を返した瞬間、無意識に右手を握り込んでいた。
手袋の内側に、あの小さな指の感触が蘇る。
——触れられる。たった一人。
それを奪われるなど、許せるはずがない。
家格としては五条家の方が上だ。
千鶴の独断と考えて間違いないだろうが、放置すれば何が起きるか分からぬ。
さすがに、婚約者とわかっているすみれの身にまで危害を加えるほど、あいつも馬鹿ではないと思いたい。
——だが、『思いたい』で済む話ではない。
車中、窓の外の景色は流れていくのに、頭の中だけが一点に張り付いて離れない。
すみれが怯えていないか。信子殿が傷つけられていないか。
最悪の想像を打ち消そうとするほど、胸の奥の黒い薔薇が棘を伸ばす。
到着した鷹宮邸の門前には、前回訪れた時よりも明らかに衛兵の数が増えていた。
俺が来ることを警戒し、手厚く包囲を固めたのだろう。
なんと無意味で、そして無駄な抵抗か。
「五条家嫡男、五条暁臣だ。千鶴に面会を求める。門を開けろ」
「で、殿下!本日はお嬢様より、約束のない者は通すなと厳命されております!」
昨日まで、呼びもしない俺の邸へ軽々しく通っていた口で、今日になってそれか。
後ろ暗い何かを隠していると、自ら喧伝しているのと同じではないか。
「宮家の衛兵ならば、俺の『異能』が何を意味するか、知っているだろう」
すみれと二人きりの時以外、決して外すことのない手袋。
それを迷いなく引き抜き、地面へと投げ捨てた。
素肌が空気に触れる。
それだけで周囲の気配が引き攣り、衛兵の喉が鳴るのが分かった。
「この程度の門も、お前たちも。俺にとっては塵芥も同然だ。『黒薔薇』の餌食になりたくなければ、今すぐそこをどけ」
有無を言わせぬ圧に、衛兵たちが顔を青ざめさせて道をあける。
邸内へと足を踏み入れると、どこからともなく湧いて出た使用人たちが、焦燥に駆られた様子で俺を取り囲んだ。
誰もが俺の素手から視線を逸らし、息を呑む。その恐れが、今は邪魔でしかない。
「殿下……!これ以上は……!」
「どけ!……すみれ!どこだ!!!」
狼狽する彼らを一瞥もせず、迷わず客間のある奥へと突き進む。
この胸を締めつける焦りは、理屈で抑えられない。
「暁お兄様。あれほどお伺いするなと仰っておりましたのに」
「千鶴……貴様」
「でも、やっぱり予想通り。衛兵を退けてまで千鶴に会いに来てくださいましたのね。嬉しいですわ」
甘い声音。だが、底に濁りがある。
すみれを人質のように隠されている今、目的が見えないまま迂闊に力を行使することはできない。
「千鶴。すみれと信子殿をどこへやった。今すぐここへ呼べ」
「まあ!隠しただなんて人聞きが悪いですわ。千鶴たち、ただ楽しくお話ししていただけですもの」
俺の婚約者であるすみれを軟禁しておいて、何を言っている。
にこにこと近づいてくるその微笑みが、今は恐ろしいほど無機質で、張り付いた仮面のように見えた。
かつて感じていたはずの妹のような親しみなど、微塵も残っていない。
無邪気さを装った瞳が、酷く気味が悪い。
「お食事を召し上がる気分でないのでしたら、せめてお茶はいかが?最高級の葉が届きましたの」
「千鶴、ふざけるな。とにかくすみれを——」
「……あまり急かさないでくださいまし。でないと……千鶴は、何をするかわからなくなるかもしれませんわよ?」
自分で……それを言うのか。
それは明確な脅迫だった。
静まり返った奥座敷で、千鶴は優雅に椅子に腰を掛ける。
俺の怒気など気にする気配もなく、紅茶と菓子を交互に口に運び続けている。
湯気の立つカップが、ひどく場違いに見えた。
もう三十分が過ぎただろうか。
この時間のどこかで、すみれが泣いていたら——そう考えただけで視界が熱を帯びる。
「千鶴、何が目的だ。こんなことをして何を得る」
「千鶴はただ、暁お兄様のお嫁になりたいだけですわ」
「……なんだと?」
千鶴のことは幼い頃から知っている。
宮家としての気位も誇りの高さも。
だがこれは——子どもの我儘ではない。
「だって、おかしいじゃありませんか。暁お兄様の『黒薔薇』には、同じ宮家の血を継ぐ『青薔薇』の千鶴こそが、唯一相応しい伴侶ですのに」
千鶴の様子からは、自分が道を外れたことをしていると言う自覚が一切感じられない。
宮家と言う閉ざされた、不可侵にも近い高貴な地位。
それが彼女の価値観を歪め、この身勝手な選民思想へと染め上げたのか。
「すみれ様がいなくなれば、暁お兄様は千鶴をお嫁にしてくださいますでしょう?」
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