第十五話 恋への気づき①
千鶴様が学校へ向かわれる前に、今日——お邸へ戻る旨を、きちんとお伝えしなくては。
戻れば、夜には……暁臣様にお会いできる。
迎えに来てくださった彼の手を、振り払うように断ってから、もう何日も。
彼の声を聞いていない。
暁臣様に触れていない。
数日ぶりにお姿を拝見できること。
夜には、またあのお邸で、同じ時間を過ごせるかもしれないこと。
胸の奥で小さな灯が揺れ、私は早朝の長い廊下を、心持ち早足で進んでいた。
この角を曲がれば、千鶴様のお部屋が——。
「……すみれお嬢様、お待ちを。様子が……おかしいです……」
「え……?」
不意に、信子さんの手が私の腕を強く掴む。
その力に、思わず息が詰まって足が止まった。
信子さんの視線の先——千鶴様のお部屋から、誰かと話されている声が漏れ聞こえてくる。
障子一枚隔てただけなのに、そこから流れ出る気配が、ひどく冷たい。
信子さんは私よりも鋭く、険しい顔をされていた。
まるで『聞いてはいけないもの』を聞いた時の顔だ。
「もうっ。暁お兄様は、本当になんにもわかってらっしゃらない」
「どう考えても、暁お兄様に相応しいのは千鶴ですのに。血筋も、力も、これまでの時間も」
「お会いしても、お兄様ったら、ずっとすみれ様のお話ばかりなさるのですもの」
……私の話……?
やっぱり、千鶴様は暁臣様のことをお好きなのだろうとは思っていた。
それなのに、婚約者である私に手本を見せ、所作を教えてくださるなんて……。
きっと、千鶴様も心中穏やかではないはず。
そう思いやろうとした私の甘い考えは、次の言葉で無残に打ち砕かれた。
「でも、そうですわね!すみれ様には、ずっとここにいていただきましょう。
お互いに顔を合わせなければ、暁お兄様の熱もそのうち冷めて、諦めもつきますわ」
ずっとここに……?私が?
諦める……?暁臣様が、私を……?
……何を、仰っているのだろう。
『会わなければ』——それは、私が物理的に暁臣様から引き離される、と言う意味なのか。
そんなことが、本当に可能なのだろうか。
皇族の婚約と言う重みを、こんなふうに『気分』で動かせるものなの?
「折を見て、いくらかの暇金でも持たせれば……」
障子越しに聞こえてくる、いつもと全く変わらない千鶴様の笑い声に、背筋がぞくりと粟立つ。
まさか……千鶴様が、そんなことを考えていたの……?
ずっと信子さんが『おかしい』と警告してくれていたのに。
その言葉の真意を、私は今になってようやく理解する。
——遅すぎる。
「すみれお嬢様、すぐにお邸を出ましょう……。支度など後回しで構いません。今すぐに」
耳元で囁く信子さんの声は、震えている。
私はただ、僅かに頷くことしかできない。
信子さんの言う通りだ。
すぐに、ここから……出なければ。
怯える脚で踵を返し、息を殺して歩き出そうとした——その時。
ギッ……。
不運にも、私の足が板の間を鈍く踏み鳴らしてしまった。
音は小さい。けれど、この静けさの中では大きすぎる。
あぁ……どうしよう。
次の一歩が、もう踏み出せない。
恐怖が鉛になって、私の身体を床に縛り付ける。
心臓の鼓動だけが耳の内側で暴れ、呼吸が浅くなる。
「あら?……すみれ様ではありませんか」
振り返ると、そこには——すでに千鶴様の姿があった。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




