第十四話 不在の隙②
すみれが鷹宮邸に滞在を始めてから、一週間。
信子殿を側に付け、毎日、細部まで書きつけた報告を上げさせる。
それでようやく——俺は辛うじて、理性の均衡を保っていた。
報告書は夜ごと机上に積まれ、一字一句を逃すまいと目を走らせる。
『よく眠っておられました』『少しだけ湯あたりをされたご様子』
たったそれだけの記述にさえ、胸の奥がほどける。
紙を指で押さえれば、そこに彼女の体温が移るはずもないのに、なぜかそれを求めてしまう。
いないと頭では分かっているのに。
帰宅するたび、無意識にすみれの姿を探してしまう。
明かりの消えた隣室。
気配の絶えた廊下。
いつもなら、そこにいたはずの穏やかな『温度』だけが抜け落ちていて、その空白が、言いようのない喪失感となって俺に襲いかかる。
「重症だな……」
誰に聞かせるでもなく、自嘲の混じった呟きが漏れる。
これほどまでに一人の少女に、己の平穏を委ねていたとは。
たった一週間で、帰る場所が『場所』ではなくなるなど——。
寝室のカーテンの揺れ方さえ違って見える。
彼女が笑えば空気が柔らかくなると、今になって思い知らされる。
馬鹿げているのに。それでも、探してしまう。今も。
「殿下、鷹宮千鶴様がいらっしゃいました」
「……分かった。すぐ行く」
執事の報告に、一度だけ大きく溜息を吐き捨て、客間へと向かった。
今日も来たか。
『すみれの様子で気になることがある』
そう言って、一日と空けずに訪ねてくる。
信子殿の報告以外に何があるのかと思えば、実際に千鶴の口から語られるのは、報告書以下の、取るに足らない内容ばかり。
どうやら自宅での個人授業に、すみれを立ち会わせているらしいが。
信子殿の文面を読み解けば、千鶴が一方的に『完璧』な所作を見せつけ、すみれを萎縮させている光景が容易に想像できる。
千鶴の態度に、純粋な親切心から模範を語る気配はない。
人を疑うことを知らない、あまりにも無垢な今のすみれにとって、その『完璧』と言う名の圧力は、いたずらに心をすり減らしているのではないか。
——早く、取り戻したい。
俺の目の届く場所へ。
「今日はどういった用件だ、千鶴。手短に頼む」
「暁お兄様。そんなことより、まずはお食事にしません?」
そんなこと、か。
俺にとっては、すみれに関すること以外、この邸に招き入れる価値も、時間を割く意味もないと言うのに。
だが、すみれがあちらの邸で世話になっている以上、無碍にもできない。
「暁お兄様は、どういったお着物がお好きですの?」
「今度、流行りのカフェに連れて行ってくださいまし」
「暁お兄様の学友の方々にも、ぜひお会いしてみたいですわ」
「本当にこのお邸はステキ……千鶴、帰りたくなくなってしまいます」
供された食事を前に、千鶴の口からは実のない会話ばかりが零れ落ちる。
器の上の香りも、舌に触れる温度も、どこか遠い。
すみれなら、こんな風にねだるような真似は決して口にしない。
……いや、ねだれるだけの『許し』を、彼女はまだ知らないのだ。
一見すると意思がなく、言いなりのようにも見えるすみれの態度は、時に俺を不安にさせることもある。
だが、本質はまったく違う。
思慮が深すぎるがゆえに、言葉を飲み込み、胸の奥底に沈めているだけだ。
いつか彼女が、『ここなら吐き出してもよい』と信じてくれた時。
一体どんな美しい、あるいは切ない言葉を紡ぐのか。
——その声を、この耳で聞きたい。
その瞬間に触れられるのが俺だけだと、彼女にも思い出させたい。
想像するだけで、乾いた心が潤うのを感じる。
「千鶴。お前もそろそろ年頃だ。今後は、このように二人きりで長居はできない」
「嫌ですわ、暁お兄様ったら。子どもの頃は、同じ布団で一緒に寝たこともありましたのに」
「……いつの話をしているんだ」
これほどまでに話が通じない相手だったか。
それとも、すみれの存在が俺にとってあまりにも穏やかで、心地良すぎたせいで、耐えられなくなっているだけなのだろうか。
「俺には、すみれと言う婚約者がいる。そのことを忘れるな」
「……でも、すみれ様は、こちらでは一度も暁お兄様のことを口になさいませんわよ?」
千鶴の不敵な笑みに、内側から苛立ちがせり上がってくる。
胸の奥の柔らかな部分を、爪で引っ掻かれたような痛み。
ただでさえ気の進まないこの食事が、より一層、砂を噛むような無機質なものに感じられた。
「いつも信子様と、おままごとのようなことをなさって、とっても楽しそうに過ごされてますわ。
お兄様がいなくて寂しいだなんて——一言も、仰らなくて」
「……話したいことはそれだけか?ならば帰れ」
「冷たいですわね。暁お兄様が、すみれ様のご様子を知りたがっているだろうと思っただけですのに」
すみれは、そういう女だ。
今まで与えられたものが、あまりにも少なかったから。
わずかばかりの慈しみや、信子殿との穏やかな時間にさえ、深い意味を見出し、喜びや楽しみを見つけることができる。
あんな場所でさえ、彼女は精一杯、自分の生を肯定しようとしている。
そんな健気で、あまりにも愛おしいすみれだからこそ——
俺は、他の誰でもなく、彼女を選んだのだ。
千鶴の放つ言葉一つが、ひどく鼻についた。
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