第十四話 不在の隙①
鷹宮邸に滞在させてもらってから、数日が過ぎた。
千鶴様は学校から帰宅されると、一息つく間もなく課題をこなし、その後は分刻みの予定で礼法、語学、社交実習といった厳しい教育を受けられる。
そして彼女は、それらすべてを難なく、完璧にこなしてみせるのだ。
私は部屋の隅に座り、その光景をただ呆然と見守る毎日を過ごしていた。
千鶴様は、生まれつき美しいだけではない。
自らに課せられた使命を果たすための努力を、片時も怠らない。
私がこれまで受けてきた授業など、彼女の積み重ねに比べれば児戯に等しい。
最低限の『真似事』でしかなかったのだ。
家柄や環境を言い訳にすることさえ許されない——
天と地ほどの差を、私は刻一刻と見せつけられ、打ちのめされていた。
「今日は、暁お兄様にお夕食を共にとお呼ばれしておりますの」
「……暁臣様に、ですか?」
「ええ。千鶴だけですわ」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で薄い硝子にひびが入るような、鋭い音がした。
耳の奥がきん、と鳴って、呼吸の仕方が分からなくなる。
——あの日、迎えに来てくださった暁臣様の手を拒み、ここに残ると決めたのは自分だ。
自業自得だと言い聞かせても、動悸だけが止まらない。
「それでは、着替えてまいりますわね。すみれ様……なんだか、ごめんなさいね?」
彼女は軽やかな足取りで着替えに向かう。
その後ろ姿を、私はただ呆然と眺めることしかできなかった。
千鶴様が、暁臣様の隣で。
私がいなくなったあのお邸で、あの穏やかな時間を共有する。
どうしよう……嫌だ。
そんなの、嫌だ。
暁臣様があのお邸で、私以外の誰かと食事をし、微笑み合っているなんて。
私には彼の行動を制限する権利も資格もないと分かっているのに、胸の奥が、幼い子どものように駄々をこねていた。
「すみれお嬢様……。心配されるようなことはないかと思いますが……今からでもお邸に戻られますか?」
「……信子さん……」
この日を境に、千鶴様が私の不在を埋めるように暁臣様の元へ通うことが増えた。
私が暁臣様のお邸にお世話になってから、彼がこのように特定のお客様を頻繁に招き入れることなど、一度もなかったはずなのに。
もし、今戻っても、私のために用意していただいた部屋がなくなっていたら?
千鶴様の非の打ち所のない所作を目の当たりにした暁臣様が、私との婚約を後悔し、冷めてしまっていたら……。
そんなはずはない。暁臣様はそんなお方ではない。
頭では必死に理解しようとするのに、足元から少しずつ、大切な居場所が剥がれ落ちていくような恐怖が、夜も眠れぬほど私を襲っていた。
「すみれお嬢様。やはり、これはおかしいです」
「おかしい……ですか?」
「はい。殿下は本来、あのように頻繁に『特定の方だけ』を招き入れるお方ではありません。まるで意図的にお嬢様をここに留め置き、殿下から遠ざけているように見えます」
信子さんの鋭い指摘に、私は息を呑む。
なんのために……?
これまで私は、自分で考え、決断することを放棄するような生き方をしてきてしまった。
蔵に閉じ込められていた時は、それでよかった。
何も考えず、流されるまま生き、ただ自分の生が終わる日を待つだけ。
無駄だと分かっていても、考え続けることを放棄してダメだったのに。
今の私は、あの頃の自分には戻れない。
暁臣様は、私にぬくもりと食事を与えてくれた。
安心できる部屋と、未来への希望を与えてくれた。
何より、『自分で考えて行動していい』と、私の意思を、私と言う個性を肯定してくれた。
「私は、すみれお嬢様が本当にされたいことをお手伝いいたします」
「……私が、したいこと」
ここに自分の意思で来たことは、間違いではない。
けれど私はここで、自分の傲慢さを知ったのだ。
千鶴様は、今の美しさを手に入れるために血の滲むような努力を続けてこられた。
それなのに私は、彼女の側にいれば、ただお手本をなぞるだけで同じようにできると思い込んでしまった。
安易で、楽な方に逃げようとした。
そんな浅はかさが、恥ずかしくてたまらない。
「……あの、信子さん。たくさん、たくさんご迷惑をかけてしまったのですが……」
千鶴様のように振る舞える自信なんて、今もまったくない。けれど——
「明日……暁臣様の元に戻ろうと思います」
「はい。きっと、殿下も首を長くしてお待ちです」
私に今必要なのは、魔法のような近道ではない。
藤波様、篠塚様、そして信子さんから。
一から、一つずつ、身につけるべき礼節や心を丁寧に学ぶこと。
そして——誰にも、暁臣様の隣を譲りたくない。
彼と共に過ごす時間を、奪われたくない。
それを『ほしい』と思ってしまう自分。
私の心に、初めての感情が芽吹いた。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




