第十三話 完璧に圧倒される①
障子を通した柔らかな朝日が、畳の青い香りを呼び覚ます。
けれど、私の心はどこか落ち着かないまどろみの中にあった。
暁臣様に夜更かしをあんなに心配されたのに……。
久しぶりの布団が、あるいは一人きりの静寂が、私の意識を冴えさせてしまったのかもしれない。
眼を閉じても、いつも隣の部屋に感じていた暁臣様の確かな気配を探してしまっている自分がいた。
お世話になっている身として、せめて何かお手伝いできることはないだろうか。
朝食を運んできてくれた女中さんに、意を決して声をかける。
「あの……何か、私にできるお手伝いがあったら……お掃除でも、なんでもいたしますから」
私の言葉に、女中さんの動きが止まる。
はっとした顔が、次の瞬間には怯えたような、ぎょっとした表情に変わった。
彼女は慌てて視線を畳へと落とす。
「い、いえ……すみれ様はお客様ですので。どうぞ、ごゆっくり……失礼いたします」
逃げるように去っていく背中を見送りながら、胸の奥に澱のような違和感が広がる。
……しまった。油断していた。
私のこの、左右で色の違う『無華』の眼。
彼女にしてみれば、不吉なものが自分を覗き込んでいるように見えたのかもしれない。
朝食の膳を下げようと廊下に出ると、ちょうど歩いていらした千鶴様に声を掛けられる。
「すみれ様。おはようございます。昨晩はよく眠れまして?」
「千鶴様……おはようございます」
そこにいた千鶴様は、昨日までの華やかな装いとは全く違う姿だった。
かつて朝霞の家で、百合も着ていたセーラー服。
「千鶴様、学校に行かれるのですか?」
「ええ。帰宅は午後になりますわ。少し退屈させてしまうかもしれませんけれど」
千鶴様は私より年下なのだから、学校に通われているのは当然のこと。
彼女の側にいれば、その所作や立ち居振る舞いを学べると思っていたのに——そこまで考えが及ばなかった。
「いってらっしゃいませ、千鶴様」
「ええ、また」
頭を下げる私の前を、制服の裾を翻して千鶴様が通り過ぎていく。
これが本来あるべき、私と千鶴様の正しい関係……そんなことを考えてしまう。
独り取り残された廊下から、広大な庭園を眺める。
池には色鮮やかな鯉が跳ね、手入れの行き届いた松が厳かな静寂を守っている。
暁臣様のお邸のような華やかさはないけれど、厳かな落ち着いた雰囲気。
起きてから、思い出すのはずっと暁臣様のことばかり。
「暁臣様……」
その名前を口にするだけで、胸の奥がキュッと締め付けられる。
出会ってからの半年の間。私はどれほど彼に守られ、甘やかされ、安心ができる『居場所』を与えられていたのか。
ここに来て初めて、その幸せの重みを実感するなんて。
お手伝いも拒まれ、何もすることがないまま、刻一刻と過ぎていく時間。
……薄暗くもないこの部屋で、なぜか朝霞家の、あの蔵の中で過ごしていた日々が蘇ってくる。
誰にも声をかけられず、存在を気にされることもなかった、透明な毎日。
息を潜めて、ただ時が過ぎるのを待っていた、あの孤独な痛み。
私は、暁臣様の差し伸べてくれた手を振り払ってまで、何をしているのだろう。
持ってきた手控え帳をめくる。
信子さんと作りかけの刺繍も持ってくればよかった。
私がここに残ったのは、以前のように息を殺して過ごすためではないはずなのに。
「すみれ様。お客様がいらしております」
千鶴様のお邸に、私を訪ねてくる人なんて?
案内された客間に入るなり、飛び込んできたのは——。
「すみれお嬢様!」
「信子さん……!?」
「申し訳ありません、あの時、私がもっと強くお止めしていれば……」
「いいえ、信子さんは何も。私が、自分勝手なことをしたのです」
暁臣様が『人を寄こす』と仰っていたのは、信子さんのことだったなんて。
申し訳ない気持ちもあるのに……心配してもらえると言うことが、こんなに嬉しいなんて。
「殿下も、気が気でないご様子でしたわ。私と一緒に帰りましょう?」
「いえ、でも……」
帰りたい。今すぐにでも、暁臣様のいるあのお邸に。
けれど、瞼を閉じれば千鶴様の、あの完璧な所作が焼き付いて離れない。
今逃げ出せば、私は一生、暁臣様の隣に立つ自信を持てないのではないか。
そんな焦りが、私の足をその場に縫い付ける。
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