第十二話 迎えの手②
「すみれが、千鶴の元へ向かっただと……!?」
邸に帰着した俺をいつもなら出迎えてくれるはずの、あの柔らかな気配。
それが欠けた玄関先で、世話を頼んでいた信子殿が深く頭を下げる。
「申し訳ございません……!私がお止めしたのですが、お嬢様の決意が固く……」
話によれば、すみれは自らの意思で、千鶴の誘いに応じて鷹宮家へ向かったと言う。
鷹宮邸であれば身の安全に問題はない。
だが、そんなことは今の俺にとって何の慰めにもならない。
すみれが、この家にいない。俺の目の届く場所に存在がいない。
その事実が、胸を刺す。
そして——茶会以来、どうにも千鶴の視線の温度だけが、気にかかっていた。
あの無邪気さの裏にあるものを、俺は見落としていたのではないか。
偶然ではない。あいつは、狙っている。
「榊原。車を出せ。今すぐ鷹宮邸へ向かう」
「え!?今すぐですか?帰宅されたばかりですよ?」
「……黙って走れ」
「あ、あの、殿下!私もご一緒に……」
「いや、大丈夫だ、信子殿。幼い子がいると聞いている。今日はもう早く帰ってやるといい」
千鶴の突然の訪問といい、そのまま強引にすみれを連れ出す手口といい、あいつは何を考えている。
茶会以来、わずか二週間ぶりに訪れた鷹宮邸。
昼間の優雅な装いとは一変し、漆黒の闇に沈む巨大な門は、冷徹な意志を持って固く閉じられていた。
「五条家の暁臣だ。こちらに私の婚約者が滞在していると聞き、迎えにきた」
門番に短く、有無を言わせぬ圧を込めて告げる。
ほどなくして案内された邸内は、五条の本邸と同じように、歴史の重みと格式が空気を澱ませ、息を吐くことさえ躊躇われるほどに静まり返っていた。
案内された客間のソファに腰を下ろし、指先で膝を叩いて焦燥を逃がす。
襖一枚隔てた先にいるはずのすみれの気配が、感じ取れない。
それだけで肺の奥が焼けるようだった。
やがて、衣擦れの微かな音と共に襖が開いた。
「暁お兄様!まあ、千鶴に会いにいらしてくださったのね!」
「……千鶴」
無邪気な笑顔を振り撒きながら、当然のように俺の隣へ滑り込んでくる千鶴。
かつてなら見慣れた光景だったはずだが、今の俺には酷い違和感しか覚えなかった。
俺の隣にいるべき、あの控えめなすみれの気配とは、あまりにもかけ離れている。
「お夕食はまだでしょう?良かったらこれから、千鶴と……」
「いや、千鶴。すみれがここにいるのは分かっている。俺はすみれに用がある。今すぐ呼んでくれ」
露骨に不服そうな顔をしながら、千鶴が部屋を出ていく。
まずは、すみれが何を考えてここへ来たのか、それを確かめなければならない。
——早く。
待っている間の数分ですら、喉の奥が乾き、掌が冷える。
「……暁臣、様……」
「すみれっ!」
名前を呼ばれた瞬間、弾かれたように立ち上がっていた。
すみれに歩み寄り、その白く、少し冷えた頬を手で包み込む。
無事な姿に安堵すると同時に、やはり一秒でも早く連れ帰りたくて仕方がなくなる。
「心配した。……なぜ、何も言わずに出ていった」
「勝手な真似をして、申し訳ありません……」
「信子殿も心配している。車を待たせてある。共に帰ろう」
「……いいえ!私……まだ、帰りたくありません」
すみれが、俺を拒んだ。
その一言で、胸の奥がずしりと沈んだ。
まるで俺の足元の床だけが、一寸抜け落ちたみたいに。
すみれの声は小さいのに、耳の奥で反響して、息の仕方を忘れる。
「……帰りたくない、だと?」
「あの……千鶴様に、私がお願いしたのです。お手本を見せてほしい、と……だから……」
「手本?千鶴をか?」
「千鶴様のように、なりたくて……今のままでは、私はあまりにも暁臣様に相応しくなくて……」
千鶴のように。
すみれが、そんなことを願っているのか。
俺にとっては、今のままの、少しずつ言葉を紡ぎ、俺を見上げてくれるすみれこそが唯一無二だと言うのに。
自らの意思を表明できるようになったのは喜ばしい成長だ。
だが、その矛先が——俺の胸を抉る。
「わがままを言って申し訳ありません……でも……」
「……本気か。自らの意思で、ここに残りたいと?」
「……はい」
眉を下げ、視線を足元に落としながらも、その返事には確かな拒絶の意志が混じっていた。
これほどまでに必死な瞳で見つめられて、どうして強引に連れ帰ることができようか。
逡巡する。
連れ帰る方法はいくらでもある。地位も権限も、俺にはある。
だが、すみれなりに俺の隣に立つ資格を得ようと、そんな思いでここに留まろうとしている。
それを認めてやることが、今のすみれに必要なことでもある。
「……わかった。無理にとは言わん」
「ありがとうございます。……暁臣様」
少しだけ安堵した彼女の表情に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
俺と離れることを喜んでいるわけではない。
自分の未熟な願いを、俺が聞き入れたことに安堵しているのだ。
それは分かっている。分かってはいるのだが。
「だが、明日また人を寄こす。困ったことがあれば、すぐに知らせろ」
「はい」
「夜は冷える。温かくして寝るんだぞ」
「はい」
「食事も、無理をするな」
「はい……暁臣様も、ちゃんと召し上がってください」
「……」
その一言が、静かに刺さった。
こちらを気遣う余裕など、まだ持てるはずがないのに。
それでもすみれは、俺を見上げてそう言った。
「あと……」
「……ふふっ、暁臣様。……心配しすぎです」
……その通りだ。俺は何を言っている。
これではまるで、過保護な親か、それ以上の何かだ。
すみれの中で俺が、頼れる婚約者ではなく、ただの心配性な保護者に見えているのかもしれない。
その想像が、胸の奥の熱を冷ます。
これ以上ここに留まれば、本当に連れて帰ってしまいそうだった。
「すみれ。……抱きしめても、構わないか?」
「え……?あ……あの……」
彼女はちらりと後ろの襖が閉まっていることを確認し、頬をほのかに赤く染めながら、小さく頷いた。
その仕草だけで、理性が揺らぐ。
壊さないように。
けれど二度と離さないと言う想いを込めて、強くその細い身体を抱きしめた。
「すみれ。決して、無理はするな」
「はい」
「……帰りたくなった時は。必ず知らせろ」
「はい……」
後ろ髪を引かれる思いで玄関へ向かい、逃げるように車に乗り込む。
「暁臣様。お気をつけて」
「……ああ。また、来る」
動き出す車。
バックミラーに映る、遠ざかっていくすみれの見送り。
その姿が視界から消えるまで、瞬きさえ忘れて、鏡の中の小さな残像を見つめ続けた。
すみれと出会ったあの日から、邸に彼女がいない夜など、一度としてなかった。
たった、それだけのことだ。
それだけのはずなのに、邸へ戻る意味が、もはや俺には分からなくなっていた。
住み慣れていたはずの邸が、今はただの、冷たく無機質な箱にしか思えなかった。
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