第十一話 突撃と決意②
声は柔らかい。けれど、その柔らかさが、刃のように薄く鋭い。
私が今必死になって指先を動かして学んでいること。
それは千鶴様のような方にとって、幼い頃に当たり前に身につけ、とうに通り過ぎたものだ。
……分かっていた。分かっていたはずなのに。
けれど、信子さんと肩を並べ、一針ずつ進める時間は、私にとって何にも代えがたい安らぎだった。
不出来な私のせいで、信子さんまで軽んじられてしまうなんて。
その申し訳なさに、心が砕かれそうになる。
「すみれ様。……ご婚儀は、いつ頃をお考えですの?」
「え……?婚儀……ですか?」
「宮家としての重要な行事もございますし。何より、暁お兄様はこれからますますお忙しくなりますわ。……いつまでも、このままと言うわけにはいかないでしょう?」
いつ……?
そんなこと、考えたこともなかった。
暁臣様はきっと、私を焦らせないために、あえて具体的な日を口にせず待ってくださっているのかもしれない。
なのに、千鶴様の口から『いつまでもこのままでは』と言われるだけで、私の胸の中の時間が急に、砂のように崩れ始める。
——私は、遅れている。
どれだけ努力しても、まだ追いつけていない。
暁臣様の隣に立つに相応しい姿ではない、と宣告された気がした。
「……もし、ご迷惑でなければ。千鶴がお手本をお見せしてもよろしくてよ?」
「千鶴様が……お手本を……?」
暁臣様は優しい。
きっと一年でも二年でも待ってくださるかもしれない。
けれど、十年は——だめだ。
あの方の時間を、私の未熟さで削り続けていいはずがない。
一日でも早く。
一日でも早く、『恥ずかしくない私』にならなければ。
目の前の、完璧な千鶴様のように——
美しく、綺麗に、迷いなく。
「すみれ様を、鷹宮家にご招待いたしますわ」
千鶴様の言葉に、頷いてしまった。
頷いた瞬間、胸の奥の何かが、ふっと軽くなった気がした。
——これで、私は少しでも『相応しい』に近づけるかもしれない。
そうでなければ、いつか暁臣様の手が離れる。そんな根拠のない恐怖だけが、私を追い立てていた。
すぐに自室へ戻り、身の回りの荷物をまとめる。
暁臣様から贈られた大切な筆入れ、日々を書き留めた手控え帳。
それから、身だしなみのための小さな鏡。
何枚かの着替えをまとめて、風呂敷にまとめて包む。
「すみれお嬢様!せめて殿下のお帰りをお待ちして、お伺いを立ててから……!」
……ダメ。
信子さんの制止に、首を振る。
暁臣様はきっと、私を案じるあまり、鷹宮家へ行くことを許してくださらない。
優しさの檻だと分かっているのに、その檻の中にいることが、今の私には怖い。
『守られている』ままでいる限り、私はいつまでも——守られるに値しない私のままだ。
藤波様の厳しい指導も、篠塚様の優雅な教えも。
そして信子さんとの穏やかな時間も。
すべてが今の私に必要なものだと分かってはいる。
それでも、千鶴様のあの迷いのない美しい所作が、私の胸を殴る。
あんな風にならなければ。
——あの方の隣に立つ資格はないのだと。
「大丈夫です。信子さん……暁臣様が戻られたら、千鶴様のお邸へ伺うと、お伝えいただけますか?」
暁臣様に止められる前に、このお邸を出てしまえばいい。
本当は、怖くてたまらない。
今まで暗い蔵か、暁臣様の広いお邸にしかいなかった私が、たった一人で他家へ伺うなんて——。
けれど、今はとにかく。
暁臣様の隣に立つのに相応しい方の側で、その息遣いを知ることができれば。
何かを変えられるかもしれない。
変えられなければ——私は、またいつか捨てられる。
そんな恐怖だけは、絶対に繰り返したくなかった。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




