第十話 喫茶店のオムライス②
すみれの手を離さぬまま、夜の闇に沈む車のドアを開けた。
榊原が運転する車に乗り込み、夜の帳が下りた街をしばらく走らせる。
車内には静寂が満ちていたが、それは鷹宮家で感じた刺すような沈黙ではない。
窓ガラス一枚の向こうに街灯の流れがあり、俺の隣にすみれの呼吸がある——
それだけで、守られたような安堵が生まれてしまう。
「……ここで、いいか」
何度か訪れたことのある、ひっそりと灯りの残る喫茶店の前で車を止めさせた。
扉を開けて中に入ると、外の冷え冷えとした夜気とは対照的な、珈琲の香りとほっとする温度が肌を包み込む。使い込まれた木の床。丁寧に磨き上げられた無垢材の卓。
そして、どこか懐かしく食欲を刺激する、甘酸っぱい匂い。
椅子を引いてやると、すみれは戸惑いながら、壊れ物を扱うような仕草で腰を下ろした。
指先が、まだ硬い。視線が、まだ揺れる。
鷹宮家の広間に置いてきたはずの緊張が、彼女の皮膚に薄く張り付いているのが見て取れる。
——茶会はついでだ。
出発前、確かにそう口にした。
彼女の肩から少しでも力を抜くための、半ば冗談のつもりだった。
だが今は、違う。
『ついで』なのは茶会の方で、俺にとって本当にほしいのは、こうして彼女の表情がほどけていく時間だ。
「何か食べよう。晩餐の席では、ほとんど何も口にしていなかっただろう」
「……すみません。……機会を逃してしまって」
すみれは申し訳なさそうに一瞬だけ目を伏せる。
謝る必要などないのに、彼女の口は反射で謝罪を吐く。
やはり、か。
あのような場所で、彼女が食事を楽しめるはずもない。
俺はメニューを一瞥し、ウェイターを呼ぶと、迷わず告げた。
「俺が選んで構わないか?」
「はい……お願いします」
「では、オムライスを二つ。それと、紅茶をホットで」
運ばれてきた皿を前に、すみれは少し驚いたように瞬きを繰り返した。
皿の上には、ふっくらと焼き上げられた黄金色の半月。
たっぷりとかけられたケチャップの鮮やかな赤が食欲をそそり、湯気がトマトの甘酸っぱい香りを運んでくる。
「……卵、ですか?」
「そうだ。中はチキンライスになっている」
「ちきん、らいす……」
説明は簡素だったかもしれない。
だが、すみれは恐る恐るスプーンを入れ、一口分を丁寧に口へ運んだ。
熱さを我慢するように目をぎゅっと閉じ——次の瞬間、表情がぱっと花が開くように変わった。
「……っ!」
「どうだ」
「……おいしい、です。すごく……熱いほどで……」
その素直な感嘆に、思わず視線が逸れる。
自分でも驚くほど、胸の奥が静かな充足で満たされていく。
すみれの小さな口が、一口、また一口と動くたび、彼女の肩がほんの少しずつ下がっていく。
鷹宮家を出た時の凍りついた張りが、嘘のように溶ける。
「……茶会の前に、話しただろう」
不意に、出発前のやり取りが脳裏を鮮明に過る。
『茶など適当にしばくだけでいい』
『……ぷっ。し、しばく、なんて……』
『帰りにどこか、すみれが喜びそうな喫茶店にでも寄ろう。茶会はそのためのついでだと思えばいい』
あの時は場を和ませるための戯言だった。
だが、こうして向かい合っていると、何物にも代えがたい実感が湧いてくる。
「約束、守れたな」
「……え?」
「茶会のついでに、こうして喫茶店に寄ると言う約束だ。寄れて、よかった」
すみれは一瞬呆気にとられた顔をし、それから小さく、本当に幸せそうに笑った。
その屈託のない笑顔を見て、確信する。
社交の席で比べられる必要などない。
『無華』だの『王華』だの、血筋や格式といった言葉に晒される必要もない。
こうして温かいものを食べ、穏やかに笑っている時が、彼女は一番美しい。
「他にも、何か頼むか?甘いものもある」
「……いえ、そんな……これだけで十分です。そんなに、食べられません」
「なら、次の機会にしよう」
言いながら、自分でも不思議に思う。
どうして、こんなにも——。
もっと食べさせてやりたい。
その華奢な身体を、安堵で満たしてやりたい。
奪われてきたものを、怖い思いをした分を、俺が取り戻す。
それは救いの形をしているが、同時に、誰にも触れさせたくないと言う渇きに近い。
「……暁臣様。今日、ここに連れてきてくださって……本当に、ありがとうございます」
その真っすぐな謝辞に、即答できなかった。
礼を言われるようなことではない。
あの場にこれ以上彼女を置いておくつもりはなかった——ただそれだけだ。
……いや、もっと正直に言うなら、俺が耐えられなかった。
「……俺が、すみれとこうしたかっただけだ」
それだけ告げると、すみれは何も言わず、また少しだけ微笑みながらスプーンを動かした。
黄金色の卵が、皿の上で少しずつ、彼女の中の暗い記憶を薄めていくように見える。
本当なら、あのような場へ行くこと自体、彼女にとっては苦痛だったはずだ。
だが俺にとっては、すみれと言うこの世で唯一無二の存在が俺の隣にいることを、世界へ周知させるための通過儀礼に過ぎない。
——次は、もっと静かで落ち着いた場所へ。
——誰にも邪魔されず、彼女の笑顔だけを眺めていられる場所へ。
そんな独占欲に満ちた考えが自然と浮かび、俺は夜の喫茶店の片隅で、音を立てぬように吐息を漏らした。
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