第十話 喫茶店のオムライス①
「お茶の後は、そのまま晩餐となりますの。暁お兄様も、すみれ様も、もちろんよろしければですけれど」
千鶴は疑いようのない親愛を滲ませて微笑んだ。
そこには、拒むと言う選択肢など初めから存在しないと言わんばかりの自信がある。
「……ああ、分かった」
短く答えつつ、隣に佇むすみれをそっと盗み見た。
彼女は健気にも小さく頷いてみせたが、頬の色は薄く、口元は固く結ばれたままだ。
手元の指先が、着物の合わせを無意識に探るように揺れている。
晩餐は、広間の続きに設えられた立食の場から始まった。
楽団が奏でる優雅な旋律、クリスタルグラスが触れ合う澄んだ音、香水と料理の湯気が混じった甘い匂い。
衣擦れの波の中で、招待客たちの視線が一斉にこちらへ集まる瞬間がある。
——すみれの瞳に、必ず引っかかるからだ。
千鶴は慣れ親しんだ社交の海で、蝶が舞うように知己へ手を伸ばし、自然と人の輪の中心に立っていた。
微笑みも相槌も、寸分違わぬ『正解』の型で、相手の機嫌をほどいていく。
対照的に、すみれは常に俺の半歩後ろを歩く。
俺が少し立ち止まれば、彼女も同じ速度で止まり、視線を落とさぬよう必死にこらえながら、周囲の空気に飲まれまいとしているのがわかる。
その美しさゆえに嫌応なしに目を引く位置にいながら、彼女だけがこの絢爛豪華な世界のどこにも属していないような、危うい孤独を纏っていた。
——やはり、無理をさせている。
そう痛感した矢先、不意に千鶴が俺の名を呼んだ。
「暁お兄様、こちらへ。どうしてもお会いいただきたい方が」
社交上の義務感に、仕方なくすみれから距離を置く。
本当は、離れたくない。
だが、千鶴が連れてきた相手は、無視できぬ家筋の人間だった。
俺はすみれの手の甲に軽く触れ、『ここに』と目で示してから千鶴の方へ向かう。
ほんの数十秒、短い時間のつもりだった。
千鶴の言葉は、聞き飽きた社交辞令の延長に過ぎない。
相手の笑い、乾杯、次の紹介——その一つ一つが、やけに遅く感じた。
背後の気配が妙に気にかかり、話の途中で視線を戻す。
そこには、すみれの前に立ち塞がるように一人の男がいた。
若い男だ。
仕立てのよい燕尾、手入れの行き届いた髪、柔らかい笑み。
物腰だけ見れば穏当だが、距離が近い。
一歩踏み込めば、すみれの呼吸を奪えるほどの近さだ。
男の瞳に宿る、すみれに対する剥き出しの興味。
悪意ではない。珍品を眺める興味だ。
だからこそ、俺の胸の奥はどす黒い独占欲でざわついた。
すみれは教わった通りに微笑んで応じている。
だが、その細い指先はグラスを握り締めたまま強張り、口をつける余裕すらない。
笑みの端が震え、肩が僅かに上がる。
——助けを求める癖がない。耐えることしか知らない。藤波の報告が脳裏を刺す。
「————失礼ですが、少しお話を」
「——はい……」
聞こえたのは、それだけだった。
気づけば、目の前で千鶴が話している内容は何一つ耳に入らなくなっていた。
俺は強引に会話を切り上げ、すみれの元へ戻る。
一瞬で場の空気が凍てつくように変わった。
俺の立ち位置と視線だけで、男は理解したのだろう。
あからさまに狼狽した顔は見せず、だが呼吸だけが乱れた。
男は丁重に一礼し、逃げるように身を引いていく。
「……すみれ。一人にしてすまなかった」
「いいえ。大丈夫です、暁臣様……」
健気に応えるその声は、今にも消え入りそうに細い。
『大丈夫』の内側に、どれほどの恐怖を隠しているか。
もう、これ以上この場に留まる理由などなかった。
「少し早いが、失礼しようか」
すみれの手をしっかり握り、玄関へ向かって足早に歩き出す。
握り返してくる力が、驚くほど弱い。
やはり無理をさせてしまった。
俺の慢心が、彼女をこの場に晒した。
自責に胸を噛まれていると、背後から高い足音が追ってくる。
「暁お兄様!!」
「……千鶴、なんだ」
「もうお帰りですの?せっかくお部屋も用意いたしましたのに。今晩は泊まっていってくださらないの?」
僅かばかり、すみれが息を呑む音が聞こえた。
千鶴の『泊まる』と言う言葉は、社交の誘いの形をしていて、実質は既定路線の確認だ。
ここで曖昧にすれば、すみれはまた『自分が邪魔だから』と受け取る。
「そうだな。今晩は早く戻り、すみれと二人きりで過ごさせてもらう」
「……そうですか。……すみれ様。また、ぜひいらしてくださいね」
千鶴は一瞬だけ、瞬きの後、目を大きく見開いた。
だが、すぐに完璧な社交用の微笑みを取り戻し、優雅に頭を下げる。
その背後で、周囲の視線がひそやかに動くのが分かった。
——構わない。今はすみれが優先だ。
邸を出て、冷えた夜気に触れた瞬間、すみれが小さく息をついた。
月明かりが彼女の横顔を淡く縁取り、長い睫毛が揺れる。
「……疲れたか?」
「少し、だけ……」
その弱々しい言葉に、一刻も早く住み慣れた自宅で休ませてやりたい気持ちが膨らむ。
だが、今の彼女に塗り潰された負の記憶を、このまま寝所へ持ち帰らせたくはなかった。
『怖かった』だけを残して終わらせたくない。
「……大丈夫なら、寄り道をしようか。すみれが息をつける場所へ」
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