第八話 鷹宮邸へ、千鶴様②
門扉の向こうに広がるのは、洋風の装飾がひとかけらもない、純日本家屋。
玉砂利の敷き詰められた長いアプローチを一歩踏みしめるたび、控えめな音が静寂に規則正しく響く。
左右には一分の乱れもなく手入れの行き届いた庭園が広がり、松や槙が幾重にも重なって、歴史の重みを黙って示していた。
その沈黙が、余計に怖い。
朝霞の家の沈黙は、私を閉じ込めるためのものだった。
けれどここは違う。ここでは沈黙が『当たり前』で、『格』で、そして逆らえない規律なのだと突きつけられる。
「……っ」
思わず息を呑む。
広い。
とにかく、広すぎる。
これまで私が暮らしてきた朝霞の家とも、暁臣様のお邸とも、明らかに格が違う。
左右にいくつもの棟が連なり、それらが迷路のような渡り廊下で複雑に繋がれているのが見える。
母屋の大きさだけでも、一体何間あるのか——想像すらつかない。
「すご……い……」
喉の奥で掠れた声が零れた。
暁臣様が、さりげなく私の前へ半歩だけ出る。
風よけのように、視線よけのように。
そして、私の手を取ったまま、もう一方の腕を差し出してくださった。
「……掴まっていろ。転びそうだ」
「は、はい……」
その一言が、私の震えを見透かしているみたいで、恥ずかしいのに——嬉しかった。
隣を歩く暁臣様をそっと窺うと、彼は特に驚く様子もなく、いつもと変わらぬ冷徹な美貌のまま、静かに周囲を見渡しているだけだった。
——ああ、そうか。
先日ご挨拶に伺った暁臣様の本宅は、確かにもっと巨大で壮麗だった。
この規模でさえ、暁臣様にとっては『見慣れた風景』なのかもしれない。
そう気づいた瞬間、背筋にひやりとした氷が走った。
己の身の丈に合わない場所にいる恐怖に、足元を凝視してしまいそうになる。
けれど、俯くな。
私は、今日のために学んできた。
暁臣様の隣に立つと決めたのだから——。
磨き込まれた廊下は鏡のように光を反射し、畳は新しくも古くもない、一番手入れの難しい状態を保っている。
人の気配は確かにあるのに、生活の匂いがどこにもない。
すべてが整いすぎていて、余白がないのだ。
「……ここが、鷹宮家……」
私の掠れた呟きは、沈黙に支配された巨大な屋敷の中へ、吸い込まれるように消えていった。
「暁お兄様——っ!!」
え……?
その高い声が耳に届いた瞬間、暁臣様がわずかに身体のバランスを崩し、私の左腕を支えていた手がふっと解けてしまった。
ただそれだけのこと。
なのに、私の足元は一気にぐらりと傾いたような錯覚に陥り、心細さが波のように押し寄せてくる。
——いま、支えがなくなった。
たった指一本分の距離でも、暁臣様の温度が離れると、世界が急に広く、冷たくなる。
「千鶴!?」
「もうっ!暁お兄様、ちっともいらしてくださらないんですもの!先日の園遊会でも、結局お会いできずじまいでしたわ」
声の主は、暁臣様の右腕に親密に抱きつくようにしてしがみついていた。
——暁臣様に、触れている。
私しか触れることのできない、と聞いていた。
けれど、厚い布越しであれば、彼に触れ、その温もりを享受できる人は他にいくらでもいるのだ。
その当たり前の事実が、胸をぎゅっと締め付けた。
私の腕に残った空白が、妙に冷たい。
私より少しだけ年下に見えるその少女は、非の打ち所がないほどに輝いていた。
艶やかな漆黒の髪は一点の乱れもなく結い上げられ、それなのに耳元や襟足にだけ残された遊び毛が、抜けるように白い首筋をいっそう際立たせている。
髪飾りは一見控えめだが、近づくほどにその価値が知れる。
金糸の極細な細工、真珠の淡く気品ある照り。
どれもが『高価です』と主張しないのに、隠しようのない育ちの良さを語っていた。
華やかなお顔立ちは、頬に淡い薄紅を差し、その唇は露を含んだ花びらのよう。
呼吸一つ、瞬き一つさえ整えられているように見えて、私は息の仕方すら忘れそうになる。
お召しになっている着物も帯も、驚くほど彼女の存在に馴染んでいた。
と言うより、着物の方がこの方に選ばれるために生まれてきたのではないか、と思わされるほどの調和。
袖を揺らす僅かな動き一つで、極上の絹が音もなく追従する。
その足運びも、佇む姿も、すべての所作がすでに『正解』として完成されていた。
何もかもが——ただ用意してもらい、慣れない布に身を包まされているだけの私とは、あまりにも正反対だった。
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