第八話 鷹宮邸へ、千鶴様①
今日は、ご招待されている茶会の日。
暁臣様が私のために特別に誂えてくださった、しっとりと肌に馴染む色無地に袖を通す。
落ち着いた薄紫色で、柄はごく控えめ。
一目で上質だとわかる生地は、身じろぎするたびに静かな艶を返して、今の私には贅沢すぎるほど。
頭の中は、今日まで必死に叩き込んできた作法でいっぱいになる。
女中さんたちが襟元を整え、帯の位置を確かめ、髪の乱れを直す。
その手つきが淀みなく進むほど、私の鼓動だけが、少しずつ——けれど確実に早くなっていった。
ゆっくりと深く息を吸う。
吐く。
吸う。
教わったことを、念仏みたいに胸の奥で繰り返す。
俯かない。
背筋を伸ばす。
真っすぐ前を見る。
そして——『無華』の証であるこの眼を、人に見られることを恐れない。
それは、私にとって何よりも高く、険しい壁だった。
鏡に映る左右で色の違う瞳からさえ、目を逸らしたくなると言うのに。
「すみれ様。殿下が玄関でお待ちです」
「……はい。今、伺います」
大理石の床に、初夏の陽射しが細かな模様を落とし、光が宝石みたいにちらちら揺れている。
開かれた扉の向こう。
逆光の中に暁臣様の姿を見つけた瞬間、胸の奥の固い結び目が、ほんの少しだけほどけた。
「すみれ。行こうか」
「はい……っ」
今日の暁臣様は、儀式の軍服ではなく、落ち着いた灰色の三つ揃いの洋装。
仕立ての良さが、動かずともわかる。
邸の優美な内装に驚くほど自然に溶け込みながらも、そこだけ空気が凛と張り詰めるようで——。
家で寛いでいらっしゃる着物も、公務の軍服も、学校へ向かわれる装いも、恐ろしいほどお似合いだけれど。
今日のスーツ姿は、まるで古い物語から抜け出した王子様みたいで。
神々しさに気圧され、直視することができない。
「……すみれ?」
名を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
顔を上げなきゃ、と分かっているのに、視線が迷子になる。
その時——。
「ひゃっ……!」
「すまない。……今日は珍しく髪を上げているからな」
首筋に、暁臣様のしなやかな指先が触れた。
手袋越しではない熱が、そこだけ小さな火になったみたいに広がっていく。
「うなじが涼しげだ。……とても、よく似合っている」
耳元で囁かれた低く甘い声に、胸の中が一気に騒がしくなる。
さっきまで、髪を上げたせいで心細かった首筋が、今はもう熱くてたまらない。
どうしよう……。
必死に暗記してきた作法が、暁臣様の一言で全部吹き飛んでしまいそうだ。
けれど、そんな私の内心を余所に、暁臣様はいつものように優しく手を取ってくださる。
その掌の温度に導かれるまま、榊原様の運転する車の後部座席へ。
乗り込む直前、暁臣様が私の指をそっと握り直した。
『大丈夫』と言葉にされなくても、そこにあるのは確かな支えで——胸の奥がじん、と温かくなる。
お邸を出るのは、これでようやく四回目。
窓の外には鮮やかな若葉が揺れる並木道が続き、流れる景色は春の柔らかさを脱ぎ捨て、夏へと力強く移り変わろうとしていた。
初めて訪れる他家のお邸。
恐ろしくて足が震えるのに、私の狭かった世界がまた少し、外側へ広がっていく音がする。
やがて大きな石造りの門をくぐった瞬間、肌を刺す空気が一変した。
車から降り立った途端、目の前の光景に圧倒され、息が止まる。
車寄せには既に数名の使用人が控えていて、こちらの到着を一分の狂いもなく待っていた。
彼らの一礼は深く、完璧で——それだけで『歓迎』ではなく『査定』のようなものを感じてしまう。
……見られる。今日の私は、婚約者として。
唇が乾き、舌の置き場さえ分からなくなる。
それでも、目を逸らし、ここで逃げたら、またあの蔵に戻ってしまう気がした。
高く反った重厚な瓦屋根。
人の胴ほどもある太い柱で組まれた門。
飾り気は一切ない。ただ、そこに在るだけで人を屈服させる圧が立ち込めている。
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