第六話 信子さんとお喋り②
すみれは今日、無事に一日を終えられただろうか。
『教育とは別に、日常の中にすみれ様の『過去』を知る方を置かれるのがよろしいかと存じます』
藤波の冷静な助言を受け、朝霞家の内情を洗う過程で見つけ出した信子殿を呼び寄せることにした。
彼女は朝霞家と言う地獄において、唯一すみれに慈悲をかけた人物だ。
護衛の侍従からは本日の様子について『良好』との報告を受けてはいる。
だが、この眼で直接すみれの顔色を見、声を聞き、息遣いを確かめるまでは、安心することはできない。
——いや、安心したいだけではない。会いたいのだ。
「榊原。もう少しスピードを出せ」
「無理ですねぇ~」
「……ちっ」
いつもは沈着冷静で頼りになる榊原の慎重な運転が、今日に限ってはもどかしく感じられる。
俺は焦っている。みっともないほどに。
四度目の授業の後、すみれが倒れたと聞いた時は肝を冷やした。
本来なら寄り添い、一番にその迷いを取り除いてやらねばならないはずの俺が、いまだにすみれの全幅の信頼を得られていない事実に苛立ち、あろうことか彼女を怯えさせてしまった。
合わせる顔がなく、己の未熟さゆえに思わず彼女を避けた。
だが——壁一枚向こう側にいるすみれの気配を感じるたびに、胸が掻き乱された。
心配などと言う簡単な言葉では足りない。
ただ俺が、彼女に会いたくて仕方がなかったのだと、ひどく長く虚しい時間の中で何度も思い知らされただけだ。
近いのに遠い。触れられるのに、触れに行けない。
俺が作った距離だと言うのが、なおさら腹立たしかった。
「おかえりなさいませ!暁臣様!」
「っ……あぁ。ただいま、すみれ」
邸に足を踏み入れるなり、はち切れんばかりの満開の笑顔で出迎えられた。
息を呑む。
笑っている。ちゃんと、笑えている。
それだけで、胸の奥の硬いものが少し崩れる。
夕食の席でも、彼女は終始楽しげに言葉を紡いでいる。
こんなに饒舌に、瞳を輝かせて話をするすみれを見るのは、出会ってから初めてのことだった。
言葉が途切れることなく、話し続ける。
「信子さんにお茶を振舞ったんです。そうしたら、美味しいって……褒めていただけて」
「信子さんには、七歳と五歳のお子様がいらっしゃるそうで……」
「いつか、一緒にお買い物に行けたらね、なんてお話ししたんです」
「あと、お料理とお裁縫も教えてくださると。……暁臣様、よろしいでしょうか?」
まさか、これほどまでに分かりやすく喜ぶとは。
信子殿と言う『安心』を得られたことが、彼女にとってどれほどの救いになったか。
俺の危惧など、全くの取り越し苦労だったわけだ。
……いや。取り越し苦労で済んだなら、それが最善だ。
だが、本音を言うならば——
この輝くような笑顔を引き出すのは、他の誰でもない、俺でありたかった。
俺に対しては、いつもどこか遠慮がちに照れたり、はにかんだりすることが多いと言うのに。
俺の前で笑う彼女は、どうしても『慎重』だ。
その慎重さが、彼女を生かしてきた術だと分かっていても、胸の奥がざらつく。
「そうだな」
なるべく平静に、頷く。
「すみれが自由に使える金についても、近いうちに渡そうと考えていた。信子殿と出かけるなら、入り用だろう」
「!そ、そんな……自由なお金なんて……私、そんなつもりじゃ……っ」
「事前に言ってくれれば問題ない。すみれの好きなように使えばいい」
「でも……」
「気にするな」
「暁臣様……本当に、本当にありがとうございます」
遠慮しながらも、差し出された厚意を拒絶せずに受け取ろうと言う意思が生まれた。
——それだけでも、喜ぶべき変化なのだろう。
彼女は今まで、受け取ることすら選択肢になかったのだから。
朝霞家で虐げられてきた彼女の境遇を考えれば、今はただ、何の心配もない安らぎに満ちた生活を送らせてやりたい。
本音を言えば、妃教育など必要ない。
読み書きができる程度で十分だ。
何もできずとも、俺はすみれを妃にする。
誰にも文句は言わせない。これは決定事項だ。
それを押し通すだけの地位も権限も、俺は持っている。
——だが。
いつか、すみれの真の価値……あらゆる『異能』を無効化する、その力が世に知られることになったら。
五条と言う家名も、宮家と言う俺の権威だけでは、彼女を守り切れないかもしれない。
奪われる。狙われる。利用される。
その想像だけで、喉の奥が熱くなる。
可能な限り、あらゆる脅威から彼女を遠ざけ、守ると決めている。
それでも、彼女自身が少しでも自分で判断できる、知識と自信と言う名の『戦う術』を身につけることが、彼女を守る盾になるのなら……。
痛みを伴う道でも、選ばせるしかない。
「喜ばしいことなのに、少し複雑だな」
「え……?」
「いや。こちらの話だ。気にするな」
俺は話題を切り替えるように、そっと手を差し出す。
「すみれ。手を」
「……はい」
白く、華奢な手を取る。
あの薄暗い蔵から連れ出した時に比べて、痛々しかった皸は消え、骨と皮ばかりだった指先は、本来の瑞々しい柔らかさと艶を取り戻している。
それでもまだ、守りきれていないものがある。
彼女の奥の奥に残る、怯えの芯。
すみれが俺に寄せる純粋な慕情は、きっと俺が彼女に抱く焦がれるような情愛とは、まだ種類が違う。
彼女はいわば、暗闇の中でようやく芽吹いたばかりの蕾だ。
親鳥に無邪気に懐く、雛鳥のようなものなのだろう。
頬を染め、所在なげに照れるその表情は、何よりも愛らしく俺の心を揺さぶる。
この無防備な顔を見せるのは俺の前だけだと、言い聞かせるように心の中で繰り返す。
胸の奥で燻るわずかな嫉妬を、どうにかして押し殺しながら。
いつか、この渇望が報われ、彼女の心のすべてが俺で塗り潰される日を——
願わずにはいられなかった。
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