第六話 信子さんとお喋り①
今日は、また新しい先生が来ると仰っていた。
大丈夫。
自分に言い聞かせるように、鏡の前で深く呼吸をする。
お休みの間、暁臣様のお言葉に従ってしっかり心身を休めた。
夜の復習も、彼が心配しない程度に留めるように心がけた。
そのおかげか、昨日も一昨日も、倒れることなく最後まで授業を受けることができた。
週に四回の授業が、五回に増えても。
たとえ、初めてお会いする先生だとしても、きっと——。
……きっと、耐えられる。
そうでなければ、私はここにいられない。
それでも、やはり初めての人と対面するのは、何度経験しても足がすくむほどに怖い。
まじまじと、この左右の瞳を見られるのではないか。
暁臣様の周りにいる方々は、皆一様に優しく、品格がある。
だからこそ、口に出さないだけで、内心ではこの『無華』の瞳を気味悪く、不吉に思われているのではないか。
そんな根深いうぬぼれにも似た不安が、常に影のように私に付きまとってくる。
——私を見下す人はいない。そう思いたいのに。
なのに、私が自分で自分を見下し続けてしまう。
玄関で迎えを待つこの時間も、本当はどこか遠くへ逃げ出したくなる。
けれど逃げたら、暁臣様の顔に泥を塗る。
そう思うだけで足が止まり、息が詰まる。
何度も大きく息を吸って、吐いてを繰り返し、胸のざわめきを無理やり抑え込む。
やがて、侍従さんの手によって、重厚な玄関の扉がゆっくりと左右に開かれた。
緊張のあまり、心の中で『大丈夫』と呪文のように何度も唱える。
藤波様に『俯いてはいけない』と厳しく教わったばかりなのに、抗えない恐怖に思わずギュッと目を閉じてしまった。
——見られる。
その想像だけで、喉がからからに乾く。
「——すみれお嬢様」
鼓膜に届いたのは、驚くほど耳に馴染んだ、穏やかな声だった。
一瞬、世界が止まる。
私は弾かれたように顔を上げる。
「信子……さん……?」
「今日からよろしくお願いしますね。すみれお嬢様」
「……どうして……っ」
「週に一度になりますが。殿下から、何もお聞きになっていらっしゃいませんでしたか?」
信子さんが、そこに立っていた。
あの朝霞家で、子どもだった私に文字を教えてくれ、唯一の味方になってくれた人。
——その人が、ここにいる。
暁臣様が……私のために、信子さんを呼んでくださったのだ。
その気遣いと、信子さんの春風のような和やかな微笑みに、視界が急激に熱くなるのを感じた。
涙が溢れそうになって、慌てて瞬きをする。
『泣いている場合じゃない』のに、気持ちが追いつかない。
「それにしても、驚きました。なんて立派なお邸……」
「はい。私も、初めてこちらへ連れてこられた時は、とても驚きました」
私が知っている世界は、あの冷たく暗い朝霞家と、この五条邸だけ。
それでも、この邸がどれほど浮世離れして美しいかはわかる。
高い天井に、見たこともない窓の形や照明。
廊下に敷かれた不思議な模様の絨毯。
まるで幼い頃に夢見た物語の世界に、そのまま迷い込んでしまったような気がする。
そんなお邸に住まわせてもらっているだけでも奇跡なのに、今、私の部屋に信子さんが座っている。
——奇跡が重なって、現実が薄くなる。
初めて『お客様』に対してお茶を淹れた。
音を立ててはいけない。
粗相をしてはいけない。
そう思えば思うほど、茶器に触れる指先が微かに震える。
藤波様に教わった通りに、一挙一動を丁寧になぞる。
湯を注ぐ角度。茶碗を置く位置。息を整える間。
小さな正解を積み重ねるように、静かに手を動かす。
「……とても美味しいですわ、お嬢様。お点前も、見違えるようです」
「良かった……っ!」
誰かをもてなすと言うことの、身の引き締まるような難しさ。
そして、喜んでもらえた時の、心が弾むような嬉しさ。
深く溜め込んでいた息を吐き出し、ほっと胸を撫で下ろした。
『できた』と感じた瞬間、世界が少しだけ明るくなる。
「所で……私は今日、どのようなご授業をしたらよろしいのでしょうか?」
「え……?あ、あの……申し訳ございません。私も、暁臣様から何も伺っていなくて……」
「まあ、そうなんですのね。ふふ、どうしましょうか」
あまりの再会の喜びに、すっかり『授業』の内容を考えるのを忘れていた。
暁臣様に事前にお聞きしておくべきだった。
どうしよう。私の不手際のせいで、信子さんが暁臣様からお叱りを受けるようなことがあったら——。
けれど、信子さんは困ったふうに笑いながら、私の表情を覗き込むように首を傾げた。
「すみれお嬢様が嫌でなければ、今日はお喋りの日にしませんか?」
「……お喋り……ですか?」
「はい。次回の授業で何をするか、二人で相談するための、大切なお喋りです」
お喋り……?
思い返せば、私は暁臣様とさえ、まともな『お喋り』をしたことがないかもしれない。
いつも黙ってお話を伺うか、問われたことに拙く応えるばかり。
私のたわいもない話を聞きたい人なんて、この世にいるはずがない。
ずっと、そう思い込んで生きてきたから。
——聞いてもらう、と言う発想すらなかった。
「あの……私、あまり上手く喋れないかもしれないのですけれど……」
「大丈夫ですよ。まずは、私の昨日あった出来事から聞いてくださいますか?」
「はい……っ、ぜひ、聞きたいです!」
信子さんの穏やかな声に導かれ、私の強張っていた心が、少しずつ解けていく。
『教わる』のではなく『話す』。
正解を求められるのではなく、ただ隣に座って、言葉を交わす。
それは、私にとってどんな言葉よりも、優しい魔法のように感じられた。
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