第四話 倒れる理由④
今日は、暁臣様もお休みだと伺っていた。
身支度を整え、いつお呼びがかかってもいいように、部屋の椅子に座って静かに待つ。
いつもの休日であれば、少し遅めの朝食を共に摂ろうと、彼のお部屋へ招かれるはずの時間。
それが音もなく、するりと過ぎていく。
時計の針の音だけが、やけに大きい。
呼ばれない。
呼ばれないまま、朝が遠ざかる。
——昨夜の『舌打ち』が、また胸の奥で鈍く痛んだ。
「すみれ様。ご朝食をこちらへ置いておきますね」
「……あ。ありがとうございます」
部屋に運ばれてきたのは、以前私が好きだと言った、大粒の梅干しが添えられたお粥。
お出汁の優しい香りが、湯気と共にふわりと立ち上る。
それだけで、涙が出そうになる。
きっと、昨日倒れた私のために、暁臣様が細かく指示を出してくださったのかもしれない。
あんなに深く、慈悲深いお方なのに。
それなのに、どうして私は彼の言葉を真っすぐに信じきることができないのだろう。
震える手で匙を持ち、用意された食事を口へと運ぶ。
お出汁が効いていて、体の芯から温まるようで、とても美味しい。
——美味しい、はずなのに。
保護された直後。
まだ身体が思うように動かなかった私に、暁臣様が自ら食べさせてくれた時の幸福。
あの時、匙が口元に近づくだけで、私は泣きそうになった。
『私にも食べさせてくれる人がいる』と言う事実が、信じられなかったから。
あの時の味と同じはずなのに、どうしてだろう。
今は、あの時の方がずっと美味しかったような気がしてしまう。
誰かと共に食事を摂る、あの奇跡のように優しい時間を知ってしまった後では……
たった一人の食事と言うものが、これほどまでに味気なく、寂しいものに変わってしまうなんて。
湯気はあたたかいのに、胸の奥が冷える。
一人で食べる食事は、以前はどのような感じだっただろうか。
ずっと一人だった。
誰かに見つからないよう、息を潜めて食べるのが当たり前だった。
冷たい蔵の隅で、音を立てないように。
咀嚼の音さえ怖くて、喉に押し込むように。
それなのに、今の私は、たった一日の不在に耐えられないほど、彼に依存してしまっている。
『依存』と言う言葉が、自分の中で嫌な形をして膨らむ。
でも、否定できない。
暁臣様がいないだけで、私はこんなにも不安になる。
「……食べて、明後日から、また頑張らないと……」
今日と明日はしっかり休んで、体調を整えて。
それから……また、あのお妃教育と言う高い壁に立ち向かわなければならない。
今、この場所から逃げ出してしまったら、今度こそ本当に、私の居場所は世界中のどこにもなくなってしまう。
逃げる選択肢はない。
でも、進むのも怖い。
……もし、もう手遅れだったら……?
私がこうして温かいお粥を啜っている間にも、暁臣様は『やはり無理だった』と婚約破棄の手続きを進めているのかもしれない。
そんなはずがない、と言い聞かせても、胸の奥の恐怖だけが先に走る。
せめて茶会までは。
暁臣様から『出て行け』と言い渡されるその瞬間までは、私にできることを。
——そうやって期限を作るのも、結局は怯えているからだ。
息苦しさに耐えかねて、部屋の大きな窓からベランダへと出た。
ひんやりした空気が頬を撫で、胸の奥の熱を少しだけ冷ます。
すぐ隣に見える、暁臣様の私室の窓。
そこには厚手のカーテンが固く閉ざされ、彼の内側を拒絶するように遮っている。
『いつ来てもいい』と言われていたけれど、今の私には、呼ばれてもいないのにその扉を叩く勇気など、欠片も残っていなかった。
叩いた瞬間、拒まれたら。
その一回で、心が折れてしまいそうだから。
プランターに植えられた、可憐な花々の前に腰を下ろす。
土の匂い。葉の瑞々しさ。
指先でそっと触れた花弁の薄さが、私の心みたいに頼りない。
「……いっぱい、咲いてる」
ここだけではない。
ベランダの向こうには、四季折々の花々が溢れる広大な庭園が一望できる。
『無華』と言う、加護を持たず蔑まれてきた私が、こんなふうに花の美しさに心を預け、愛でることで安らぎを得る日がくるなんて。
——ありえない未来を、生きている。
なのに、安心できない。
時折、壁一枚を隔てた隣の部屋から、暁臣様の微かな気配が伝わってくる。
足音なのか、椅子を引く音なのか、それとも気配だけなのか。
その度に、私の心は千々に乱された。
近いのに、遠い。
触れられる距離にいるのに、触れに行けない。
満足な教養もなく、まともに授業を受けることさえできない。
どれだけ背伸びをして、血の滲むような努力を重ねた所で、私なんかが、あの気高く美しい暁臣様の隣に、婚約者として並んで立てるわけがないのだ。
そう思ってしまう自分が、また私を追い詰める。
それよりも何よりも、彼に嫌われるのが、ただただ恐ろしい。
どうしたら、嫌われずにいられるのだろう。
どうしたら……この瞳も、この空っぽな心も、丸ごと好きになってもらえるのだろうか。
答えなどどこにもないのに。
今の幸せよりも、もっと、もっと大きな愛を……なんて、身の程知らずな願いばかりが溢れてしまう。
本当は、今すぐ会いに行きたい。
昨夜、暁臣様は『なぜ頼らない』と仰っていた。
『会いたい』と願うこと。
ただ、その一言を口にすることさえ、彼にとっては『頼る』ことになるのだろうか。
でも、もし暁臣様が求めている『頼る』と言う意味と、私の我が儘が違っていたら。
『頼っていい』と言われた瞬間に、私はもっと嫌われるのではないか。
——そんな捻れた恐怖が、喉を塞ぐ。
結局この日、昼も夜も、私が彼の食事に呼ばれることは、最後まで一度もなかった。
たった壁一枚。扉一枚の向こう側に、彼はいるのに。
呼びかければ届く距離のはずなのに。
それはまるで、暁臣様と私の住む世界が、永遠に交わることのない別物だと言うことを、改めて思い知らされた気がした。
——同じ屋敷にいるのに、私はまた、一人だ。
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