第四話 倒れる理由③
「あれ……私……?」
重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れた薄紫色の天蓋だった。
柔らかな絹の布地が、天井から優しく揺れている。
——私の部屋。私のベッド。
なのに、身体の芯だけが冷たくて、現実感が薄い。
「——目が覚めたか」
低く、けれどどこか硬い声に弾かれたように視線を送る。
ベッドの傍らに置かれた椅子に、腕と脚を組み、険しい表情で座る暁臣様の姿があった。
ランプの灯が頬骨の影を強く作り、いつもより鋭く見える。
暁臣様が、もうご帰宅されている……。
窓の外は、すでに濃い夜の闇に塗り潰されていた。
——夜。
お迎えにも行けていない。
どうしよう。
お出迎えもできず、こんな所で眠りこけてしまうなんて。
お仕事で疲れ果てていらっしゃるはずなのに、お食事の用意も、お召し替えの手伝いも、何一つ……。
何もできない。
また、何も。
呆然とする頭の隅で、昼間の記憶が断片的に蘇る。
篠塚様との二度目の授業。
柔らかな微笑みの奥にある、逃げ場のない完璧な所作。
優しい声で、正しい形だけを示され続ける怖さ。
心臓が早鐘を打ち、息が浅くなり、指先が冷えた。
そして——冷たい溜息を吐き出された、と感じた次の瞬間。
視界が、真っ暗に沈んだのだ。
鉛のように重い身体を、必死に起こそうともがく。
起きなければ。謝らなければ。役に立たなければ。
でも、身体が言うことをきかない。
「無理に起きようとするな」
暁臣様の声が、少し近い。
怒っているのか、焦っているのか、私には分からない。
「医師によれば、過度の緊張と疲労による知恵熱だそうだ」
「いえ……あ……あの、申し訳、ございません……っ」
「——謝るな」
短く遮られ、喉がきゅっと縮む。
けれど、止まらない。
謝る以外の言葉が、見つからない。
「夜もずっと、筆を動かしていたな?すみれがしたいようにさせたいと思い、何も言わずにいたが……」
喉が焼けるように熱い。
また、私なんかのために、貴重なお医者様を呼ばせてしまった。
診察代は、お薬代は、いったいいくら掛かってしまったのだろう。
そのうえ、暁臣様に看病までさせてしまうなんて。
私を想って篠塚様を呼んでくださった厚意を、ただ台無しにしただけではなく、恥までかかせてしまったのではないか。
胸の奥がぐちゃぐちゃになって、息が苦しい。
「なぜ、我慢する」
暁臣様の声に、これまでにない鋭い色が混じる。
その一言で、身体がびくりと跳ねた。
「なぜ、俺に何も言わない。……なぜ、もっと早く頼らないんだ」
我慢……。
我慢って、なんだろう。
私は、我慢なんてしていたのだろうか。
どこまでが耐えるべきことで、どこからが声を上げるべきことなのか。
その境界線さえ、私にはわからない。
だって、これまでの人生、どんな理不尽だって、私が飲み込むのが当たり前だったから。
頼るなんて、何をどうやって言葉にすればいいのかも知らない。
もし今していることが『我慢』なのだとしたら、それは私が息をするのと同じくらい、当然に繰り返してきた生存の術なのだ。
『無華』で何の価値もない私が、誰かに甘え、頼ることで、これ以上の迷惑をかけてしまったら?
もし、その図々しさを嫌われて、捨てられてしまったら……?
——その恐怖に比べれば、身体の痛みや心の摩耗など、取るに足らない。
そう思ってしまうくらい、私は怖い。
「ちっ……」
暁臣様が小さく舌打ちをし、苛立ちを隠さぬまま無造作に髪を掻き毟る。
その、ほんの僅かな拒絶の仕草だけで、私の身体は石のように固まった。
条件反射で目蓋が落ち、視線を上げることができなくなる。
——怖い。怒られる。見捨てられる。
「この土日は一切の勉強を禁ずる。大人しく静養するように」
「あ……っ」
言い返す言葉が出ない。
でも、言い返したいわけでもない。
ただ、拒絶されたように感じてしまう自分が、怖い。
「……ゆっくり休め」
それだけ言って、暁臣様は立ち上がった。
去っていく背中。
離れていく体温が悲しくて、行かないでと縋り付きたいのに、声が喉に張り付いて出てこない。
滲んだ視界の中で、ただ遠ざかる足音を見送ることしかできなかった。
私が倒れさえしなければ、今頃、暁臣様は穏やかな晩餐を楽しめていたはずなのに。
その大切な安らぎの時間すら、私の無能さが奪い取ってしまったのだ。
私なんかが……『普通の人』のような幸せを望んでしまったから。
だから、あんなに優しかった暁臣様に、あんな顔をさせてしまったんだ。
言い訳をしたら、殴られる。
期待に応えられなければ、暗い蔵に閉じ込められる。
暁臣様が絶対にそんなことをしないお方だと言うことは、嫌と言うほど理解しているはずなのに。
それなのに、恐怖の記憶が視界を狭め、身体を容赦なく支配していく。
「ぁきおみ、さま……」
喉の奥で、絞り出すように漏れた声は——。
バタン、と言う非情な音を立てて閉まった扉に、無慈悲に掻き消された。
何度も聞いてきた、扉が閉まる音。
けれど今の私には、それがとてつもなく重く、心臓を押し潰す石のように響いた。
それはまるで、あの冷たく仄暗い蔵の中で、外の世界から切り離された時に聞いた、鉄の扉の音を思い出させるほどに。
胸が痛い。息ができない。
その夜、暁臣様と出会って初めて、私は夕食の席に呼ばれることはなかった。
それが彼の深い怒りの証のように思えて、私はただ一人、暗闇の中で、張り裂けそうな胸を抱えて怯え続けるしかなかった。
——もし、ここから追い出されたら。
また蔵に戻ることになるのだろうか。
そんな馬鹿げた想像が、現実みたいに、私の喉を締め上げた。
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