第四話 倒れる理由②
「では、今日は軽く始めましょうか」
篠塚様は何事もなかったかのように、軽やかな手つきで準備を始める。
その自然さが、私をさらに追い詰める。
どうしよう……もう、これ以上顔を上げていられる気がしない。
今すぐこの場から逃げ出して、袖で顔を隠したい。
いっそ、誰もいないあの冷たく暗い蔵に戻ってしまいたい……。
けれど、そんな勝手な振る舞いをすれば、私を選んでくださった暁臣様にどれほどの恥をかかせてしまうか。
それだけが、今の私を繋ぎ止める唯一の楔だった。
——暁臣様の名を思い出すだけで、かろうじて背筋が保たれる。
「まずは、お茶の作法を少し。完璧を目指す必要はありませんのよ、すみれ様」
「はい……」
にこやかに言われれば言われるほど、体中が強張って、余計に緊張してしまう。
優しさは、時に逃げ場を塞ぐ。
『大丈夫』と言われたら、逃げる理由がなくなってしまうから。
言われるがまま、用意された高価な茶道具の前に座る。
畳に膝をつく角度。背筋の伸ばし方。手の置き方。
茶碗の持ち方、回し方、差し出し方。
篠塚様は一つ一つ、歌うような口調で丁寧に教えてくださる。
言葉は柔らかいのに、正しい形だけが淡々と積み上がっていく。
「そこは、もう少し自然に。……ええ、そうです。形は悪くありませんわ」
否定されているわけではない。
けれど、その指導の節々に、『正解』と言う高い壁と、そこから遠く離れた私の『不正解』な姿が透けて見えて、怖かった。
私は今、この場にいるだけで、間違っているのではないか。
そんな考えが、すぐに根を張る。
「あら。今の手つき、少しだけ力が入りすぎていますね」
「……申し訳、ございません」
「謝る必要はありませんよ。まだ慣れていないだけですもの」
反射的に謝罪が口をつく。
謝ることで、怒りを先回りして消せる気がしてしまう。
それが染みついた癖だと、頭では分かっているのに。
篠塚様は一瞬だけ目を瞬かせ、それから聖母のような優しい微笑みを浮かべた。
でも、その優しさが、かえって抜けない棘のように心に刺さる。
——『まだ』。
それは、いずれはできて当然になる世界。
『慣れていない』と言うことは、この世界にいるのが不自然な存在だと言われているようで。
「お育ちの環境が違えば、最初は皆そうですから。お気になさらずに」
けれど、その言葉の裏にある『断絶』が、はっきりとした形を持って私に見えてしまう。
……ああ。私は、この方たちとは根本から違う。
同じ部屋で息をしていても、立っている地面が違う。
私は、異物なのだ。
「大丈夫ですよ。努力なされば、きっと皆様に追いつけますわ」
篠塚様は、疑いようのない善意でそう言った。
だからこそ、余計に逃げ場がない。
善意は、私を『正しい場所』へ押し上げようとする。
——でも、その『正しい場所』が、どれほど遠いかを知っているのは私だけだ。
追いつく……。
その言葉が、気の遠くなるほど遠くに感じられる。
私が今立っている場所から、彼女たちがいる場所は、見上げるほどに高く、険しい。
手を伸ばしても届かない。
伸ばした腕が震えるだけだ。
授業が終わる頃には、慣れない所作で疲れた身体よりも、心の方が鉛を飲み込んだように重くなっていた。
胸の奥に沈んだものが、息を吸うたびにずしりと増える。
「今日はここまでにしましょう。よく頑張られましたね」
「ありがとうございました……っ」
「こちらこそ。また次回、お会いしましょうね」
立ち上がる篠塚様に、慌てて、深く深く頭を下げた。
頭を下げている間だけは、目を合わせなくて済む。
そんな自分が、また情けない。
柔らかな声。
完璧な礼。春風のような香りの余韻を残して、扉が閉まった。
しばらくの間、静まり返った部屋で一人立ち尽くしていた。
足の裏が冷たくて、現実だけが戻ってくる。
昨日は、ほんの少しだけ希望と言う名の光が見えた気がしたのに。
今日は、その光が照らし出した絶壁の高さに、ただただ絶望を突きつけられた気がした。
……登るべき山を見せられて、膝が笑っている。
——大丈夫。
自分自身を抱きしめるように、言い聞かせる。
声に出さなければ、崩れてしまいそうだった。
暁臣様のために。
私を見つけて、その腕に抱き寄せてくれたあの熱を、手放さないために。
そして——あの熱を知ってしまった私が、二度と蔵に戻らないために。
そうでなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうな自分を、支えることなどできなかった。
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