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34話 そばにいたかった(リヒト視点)

最初は気になるだけだった。


異界の花嫁。


国を救う存在。


代々伝わる召喚の儀によって、この世界へ呼ばれる特別な女性。


リヒトは召喚そのものを否定するつもりはなかった。


この国で生まれ、この国で育った。


汚染に苦しむ人々を知っている。


だから必要なのだと理解していた。


だが――


好きにはなれなかった。


召喚の間に集まった人間たち。


歓声。


期待。


祝福。


皆が異界の花嫁の誕生を喜んでいた。


まるで祭りだった。


その中心にいる当人の気持ちなど考えもせずに。


光が消えたあと。


そこに現れた女性は呆然としていた。


当然だ。


知らない場所。


知らない人間。


知らない世界。


理解できるはずがない。


それなのに周囲は喜んでいた。


リヒトはその光景に少し苛立っていた。


だからだろうか。


彼女が最初に発した言葉を今でも覚えている。



「帰りたいんですけど」



静まり返った空間。


誰も答えられなかった。


当然だ。


誰も知らないのだから。


帰還方法など。


リヒトはその時思った。


当たり前だろう、と。


帰りたいに決まっている。


だが周囲は困った顔をした。


まるで予想していなかったかのように。


その反応にまた少しだけ苛立った。


だから監視役を兼ねた護衛を命じられた時も断らなかった。


王太子レオンの命令だったこともある。


それに。


自分の目で見ておきたかった。


この女性がどんな人間なのか。



最初は監視だった。


本当にそれだけだった。


異界の人間だ。


何を考えているか分からない。


国に害をなす可能性だってある。


だから見ていた。


常に。


だが。


何日見ても。


何週間見ても。


怪しい行動は一つも見つからなかった。


図書室へ向かう。


本を読む。


魔法の勉強をする。


侍女たちに礼を言う。


庭師にも笑顔を向ける。


食事を作った料理人にも感謝する。


ただそれだけだった。


ある日。


魔法が初めて成功した時。


少しだけ元気になった植物を見て。


彼女は本気で喜んでいた。


子供のような笑顔だった。


その姿を見て。


思わず口元が緩みそうになったのを覚えている。


護衛なのだから無表情を貫いたが。



城下町へ行った時もそうだ。


初めての給料。


楽しそうに店を見て回っていた。


高価なアクセサリーを見つけても。


欲しいと言わない。


少し悩んで。


諦める。


代わりに侍女への土産を選ぶ。


弟王子への菓子を選ぶ。


自分のためではなく。


誰かのために。


そんな姿ばかり目についた。



気付けば監視ではなくなっていた。


いつからだろう。


分からない。


ただ。


彼女が笑っていると安心した。


落ち込んでいると気になった。


それだけだった。



そしてあの日。


朝から様子がおかしかった。


ぼんやりしている。


笑顔はある。


だがどこか違う。


体調が悪いのかと思った。


エリーも気付いたらしい。


だが琴葉は笑って否定した。


授業もいつも通り。


魔法も問題ない。


なのに胸騒ぎがした。



そして。


ヘンリーとの会話。



「私って元の世界に帰れるんですか……?」



その瞬間。


全て理解した。


ああ。


帰りたいのだな。


当たり前のことだった。


今まで忘れていたわけではない。


だが。


彼女があまりにも前を向いていたから。


この世界で頑張っていたから。


見失っていた。


彼女は被害者なのだ。


勝手に召喚された。


家族も。


友人も。


仕事も。


人生も。


全部置いて。



ヘンリーは答えた。


「分からない」と。


琴葉は笑った。


「ありがとうございます」と。


だが。


その笑顔が苦しかった。


無理をしているように見えた。


泣きたいのに。


泣かないようにしているように見えた。



夜。


落ち着かなかった。


剣の手入れをした。


風呂に入った。


着替えた。


いつもと同じ。


なのに落ち着かない。


今頃何をしているのだろう。


眠れているだろうか。


泣いていないだろうか。


明日になればまた笑っているだろうか。


気付けば部屋を出ていた。



顔だけ見たかった。


それだけで良かった。



だが。


部屋にはいなかった。


血の気が引いた。


心臓が鳴る。


どくり。


どくり。


どくり。


息が苦しい。


騎士として何度も戦場に立った。


死線を越えたこともある。


それでも。


こんな感覚は初めてだった。



どこにいる。


無事でいてくれ。


顔を見せてくれ。



探した。


必死に。


そして見つけた。


月明かりの下。


ベンチに座る彼女を。


安堵で膝から力が抜けそうになった。



「眠れないんですか」



気付けば自分から話しかけていた。


気付けば隣に座っていた。


そして彼女は話してくれた。


母親のこと。


家族のこと。


帰れないかもしれない不安。


そして。



「一生会えなかったらどうしよう……」



零れた涙。


その瞬間。


手を伸ばしていた。


抱きしめたいと思った。


泣かないでほしかった。


安心させたかった。


自分がどうにかしてやりたかった。


だが。


できなかった。


自分は護衛。


彼女は未来の王妃。


伸ばした手を止める。


代わりにハンカチを差し出した。


それが精一杯だった。



あの日からだった。


守りたいと思うようになったのは。


任務だからではない。


国のためでもない。


ただ。


彼女自身を。



レオンに呼ばれたのはある日の夕方だった。


王太子執務室。


護衛任務の報告を終えたリヒトに、レオンは書類から顔を上げた。


「そういえばさ。」


どこか軽い口調だった。


「そろそろ僕のそばに戻ってきてもいいんじゃない?」


リヒトは眉一つ動かさない。


「……どういう意味でしょうか。」


「そのままの意味だよ。」


レオンはペンを置き、椅子にもたれた。


「最初は異界の花嫁がどんな人物か分からなかった。」


「だから信頼できる君を護衛につけた。」


リヒトは黙って聞いている。


「でも琴葉は違った。」


レオンは小さく笑った。


「真面目で、優しくて、努力家だ。」


「魔法の勉強も頑張ってるし、使用人たちからの評判もいい。」


「もう監視なんて必要ない。」


その言葉にリヒトは何も答えない。


レオンは続けた。


「他の騎士でも十分だと思うんだけどな。」


静寂が落ちる。


数秒。


十秒。


それ以上。


レオンは内心少し驚いていた。


リヒトは決断が早い。


必要か不要か。


白か黒か。


曖昧にする男ではない。


なのに今日は違う。


珍しく迷っている。


やがてリヒトが口を開いた。


「……もう少し護衛を続けます。」


レオンの口元が僅かに上がる。


ほう。


そう来たか。


「どうして?」


分かっている。


だが聞いた。


リヒトは答えない。


僅かに視線を伏せる。


言葉を探しているようだった。


「……まだ本性を隠している可能性があります。」


危うく吹き出しそうになる。


嘘だ。


昔から知っている。


リヒトは嘘が下手だ。


「へえ。」


笑いを堪えながら相槌を打つ。


するとリヒトは続けた。


「異界の花嫁を利用しようとする者もいます。」


「俺がついていた方が牽制になる。」


なるほど。


確かに理屈としては間違っていない。


間違っていないのだが。


レオンは面白くなってきた。


琴葉を守る理由を必死に並べている。


だが本人は気付いていない。


その理由の本質に。


「ふーん。」


レオンはグラスを手に取る。


「琴葉を守りたいんだね。」


一瞬。


本当に一瞬だけ。


リヒトの動きが止まった。


レオンは見逃さない。


幼い頃からの付き合いだ。


誰よりも知っている。


今の反応は図星だ。


「護衛ですので。」


即答だった。


だが少しだけ早かった。


レオンは笑う。


優しく。


そして少しだけ楽しそうに。


「そっか。」


沈黙。


しばらくしてレオンは肩をすくめた。


「じゃあ、もう少しお願いしようかな。」


その瞬間。


リヒトは小さく息を吐いた。


本当に小さく。


だが確かに。


安堵したような吐息だった。


レオンはそれを見て確信する。


ああ。


そういうことか。


氷の騎士様にも春が来たらしい。


本人だけが気付いていないけれど。


「よろしくね、リヒト。」


「……承知しました。」


一礼して部屋を出ていく。


扉が閉まる。


静かになった執務室でレオンは小さく吹き出した。


「ははっ……」


数年ぶりかもしれない。


あのリヒトが誰かに執着している姿を見るのは。


窓の外へ目を向ける。


その先にいるであろう異界の少女を思い浮かべながら。


「頑張れよ。」


誰に向けた言葉かは、自分でも分かっていた。


執務室を出た後。



王太子執務室の扉が閉まる。


静かな廊下を一人歩く。


規則正しい足音だけが響く。


いつもと変わらない。


はずだった。


「……」


ふと足が止まる。


窓の外を見る。


夕日が差し込んでいた。


レオンとの会話を思い出す。



「もう監視は必要ない。」



その言葉は正しい。


誰よりも分かっていた。


琴葉は危険な人物ではない。


むしろ逆だ。


真面目で。


優しくて。


誰かを傷つけるような人間ではない。


監視などとっくに必要なくなっている。


それなのに。



『もう少し護衛を続けます』



自分の口から出た言葉を思い返す。


意味が分からなかった。


なぜそう答えた。


監視は不要だ。


護衛なら他の騎士でも務まる。


それなのに。


なぜ自分でなければならないと思った。


「……」


答えは出ない。


ただ。


胸の奥に浮かぶのは一人の女性だった。


本を読んでいる姿。


魔法の練習をしている姿。


初めて浄化に成功して喜んでいた姿。


城下町で楽しそうに店を見て回る姿。


そして。


月明かりの下で涙を流した姿。


思い出すだけで胸がざわつく。


護衛だからだろうか。


責任感だろうか。


違う気がした。


だが何なのかは分からない。


分からないまま。


ただ一つだけ確かなことがあった。


もし今日、


「では明日から別の騎士を護衛につける」


と言われていたら。


自分は納得できなかっただろう。


その事実に気付き、


リヒトは僅かに眉を寄せた。


「……どうして俺は。」


小さく呟く。


答えはない。


ただ。


レオンの最後の笑みだけが頭に残っていた。


まるで全て見透かされているような。


そんな笑みだった。



夜会の翌朝には王城を発っていた。


挨拶はしていない。


数日で戻る予定だった。


必要ないと思った。


騎士として当たり前のことだ。



だが。


任務中。


何度も思い出してしまう。



「ケチ。」



不意に頭に浮かんだ言葉に眉をひそめる。


夜会の終盤。


酔った琴葉が言った言葉だ。


酒の入ったグラスを取り上げた時だった。



『えー……』



不満そうな顔。


そして。



『ケチ。』



思い出した瞬間。


なぜかその光景が鮮明によみがえる。


赤くなった頬。


少し潤んだ瞳。


拗ねたような表情。



「……」



自分は何を考えている。


任務中だ。


しかも思い出している内容が意味不明だった。


普通なら。


ドレス姿とか。


夜会での立ち振る舞いとか。


そういうものではないのか。


なぜ。


よりによって。



『ケチ。』



なのか。



小さく息を吐く。


だが。


思い出してしまう。



『リヒトさん。』



少しだけ甘えた声。


普段は聞かない話し方。



『ケチ。』



今度は思わず目を閉じた。


やめろ。


集中しろ。



しかし。


その後も。


馬を走らせながら。


書類を確認しながら。


食事を取りながら。


何度も頭に浮かんだ。



『ケチ。』



そして気付く。


あの日のことを思い出しているのではない。


琴葉を思い出しているのだと。


王都が見えてきた。


騎士たちの間にも安堵の空気が流れる。


数日間の任務。


大きな怪我人もなく終了した。


本来ならそれで十分だった。


だが。


リヒトの胸の内は落ち着かない。



早く帰りたい。



その考えが何度も浮かぶ。


王城へ。


違う。


王城ではない。



会いたい。



その言葉が頭をよぎり、


思わず眉を寄せた。


何を考えている。


護衛対象だ。


それ以上でも以下でもない。


そう自分に言い聞かせる。


だが。


帰還が近付くほど落ち着かなくなった。



そして王城へ戻る。


だが騎士は帰ってすぐ自由になるわけではない。


馬を預ける。


武器の点検。


被害報告。


討伐報告。


書類確認。


隊員との引き継ぎ。


やることはいくらでもある。



「隊長、こちらの書類もお願いします。」



部下から差し出された紙を受け取る。


目を通す。


署名する。


だが。


集中できない。


いや。


正確には集中はできている。


内容は理解できる。


仕事もこなしている。


それなのに。


頭の片隅にずっといる。



今頃何をしているだろう。



そんなことばかり考えていた。



ようやく最後の書類を書き終えた時だった。



「リヒト卿。」



女性の声。


顔を上げる。


騎士団所属の女性騎士だった。


数日前に訓練場で話した相手だ。



「お帰りなさい。」



「……ああ。」



女性騎士は少し笑う。



「異界の花嫁様の護衛をされているんですよね?」



リヒトは頷く。



「実際どんな方なんですか?」



その質問に。


不思議なことが起きた。



「真面目な方だ。」



自然と言葉が出た。



「努力家で。」



続く。



「優しい。」



さらに続く。



「使用人への態度も丁寧だ。」



そこまで話して。


リヒトはようやく口を閉じた。


女性騎士が目を丸くしている。



「……意外です。」



「何がだ。」



「リヒト卿がそんなに誰かを褒めるなんて。」



リヒトは少し眉を寄せた。


そうだろうか。


ただ事実を言っただけだ。



「ふふ。」



女性騎士はどこか楽しそうに笑った。



「護衛のお仕事、気に入っているんですね。」



「……任務だ。」



即答する。


だが。


女性騎士はさらに笑みを深めた。



「そういうことにしておきます。」



意味が分からない。


リヒトは首を傾げる。



「では失礼します。」



女性騎士は去っていく。


一人残されたリヒトはしばらくその背中を見ていた。


そして。


ふと気付く。



報告書を書いていた時より。


彼女の話をしていた時の方が。


自然に表情が緩んでいたことに。



「……」



無意識だった。


気付いていなかった。


だからこそ。


その事実に少しだけ戸惑った。



そして。


ようやく仕事が終わる。


向かう先は決まっていた。


異界の花嫁の部屋。


数日ぶりに会える。


そう思いながら歩き出した。



その数十分後。



「護衛はもう大丈夫ですよ。」



そう言われることになるとは知らずに。



ようやく仕事が終わった。


気付けば足は自然と琴葉の部屋へ向かっていた。


廊下を歩く。


あと少し。


あと少しで着く。


数日ぶりだった。


たった数日。


今までなら何とも思わなかったはずだ。


それなのに長く感じた。



部屋の前に立つ。


ノックしようとして。


手が止まった。


自分でも理由が分からない。


少しだけ緊張していた。


深く息を吐く。


そして。


コンコン。


扉を叩いた。



「はい。」



聞き慣れた声。


胸の奥が少しだけ軽くなる。


扉が開く。


そこにいたのは。


会いたかった人だった。



「おかえりなさい。」



琴葉が笑う。


いつもと同じ笑顔。


それを見ただけで。


任務中ずっと感じていた落ち着かなさが消えていく気がした。


無事だった。


元気そうだ。


それだけでよかった。



「ただいま戻りました。」



自然と口元が緩みそうになる。


だが表情には出さない。


いつも通り。


いつも通りだ。



「明日からまた護衛に戻ります。」



そう告げた。


当然のように。


何も疑わずに。



だが。


琴葉は少しだけ視線を逸らした。


そして。


笑顔のまま言った。



「……護衛はもう大丈夫ですよ。」



思考が止まった。



「この数日も大丈夫でしたし。」



何を言われているのか理解できない。



「エリーもいてくれましたし。」



頭に入ってこない。



「代わりの騎士もいなかったってことは、護衛は絶対じゃないんですよね?」



違う。


そうじゃない。


そう思った。


だが言葉にならない。



「だから明日からも大丈夫かなって。」



琴葉は笑う。


いつもと同じ優しい笑顔。


なのに。


なぜだろう。


胸の奥が苦しい。



「今までありがとうございました。」



そして。


扉が閉まった。



パタン。



静かな音だった。


本当に小さな音。


だが。


なぜか剣で斬られたような衝撃だった。



「……」



リヒトは動けなかった。


閉じられた扉を見つめる。


意味が分からない。


何を間違えた。


何かしただろうか。


嫌われたのか。


避けられているのか。


分からない。


何も分からない。



ただ。


やっと会えたと思った。


また明日から隣に立てると思った。


そう思っていた。


それだけだった。



「……どうしてだ。」



小さく漏れた声は誰にも届かない。


返事もない。


閉じられた扉は静かなままだ。



リヒトはその場に立ち尽くした。


まるで行き場を失った子供のように。


ただ一人。


呆然と。

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