月白の娘・2【外伝・ルドガー視点】
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
深夜の領主館の庭園を早足で横切りながら、濡れた頬を拳でぬぐう。
何が起こっているか理解できない。
ノナに初めて対面した3歳の時のようだ。
だが心中平静だったあの時とは逆に、今の俺は嵐の海に翻弄される小舟さながらの錯乱状態だった。
「何だこれは……何なんだいったい」
俺の頬をびしょびしょにしているこの透明な液体の名称が、混乱しきった頭の中にはすぐには浮かんでこなかった。だが…。
「なみだ、だと……!?」
そう気づいた瞬間、俺は衝撃を受けた。
こんなことは生まれて初めてだ。
物心ついた時から、俺は涙を流して泣いたことなどなかった。
なぜ今俺はこんなふうに、涙など流しているのだろう?
自分のことなのに理由がまったくわからない。
涙とは、感情が高ぶった時に流れるものだろう。
うれしいにせよ、悲しいにせよ、魂をもがれて感情の枯渇した俺が、涙を流すことなどあるはずがないのだ。
「あの女…!」
今さっき逃げるようにしてその元を離れてきた名ばかりの妻を思い出し、ぎり、と唇をかんだ。
「いったい俺に何をしたんだ? 魅了の魔法でもかけたのか」
そんなはずはないとわかっているのに、俺は毒づかずにはいられなかった。
「騎士団長たるもの、常に心を安定させておかなければならんというのに。
いつも俺を攪乱してくる邪悪な女…あいつはやはり、真実の愛を邪魔する魔女だ。
近づくべきではなかった」
俺は心を落ち着かせようと、庭園の片隅の、誰の目にもつかない暗がりのベンチに腰を下ろした。
夜会の催されている明るい大ホールを遠目に見やる。
あそこには大勢の賓客のほか、父と母もいるはずだ。
年老いた二人の顔が頭をよぎった。
母イーディスは、とても頭の良い女性だ。
そんな母が、俺がネリーのことで父と衝突した時は、なす術もないといった様子でただ泣くばかりだった。
俺がエリナ・リズリー伯爵令嬢と結婚した時には、母は妻に対する俺の非情な態度を幾度となくいさめてきたが、俺が聞き入れなかったので結局何も状況を変えることはできなかった。
母はついに貧民のネリーと対面することはなく、いつしか息子である俺との交流も途絶してしまった。
高位貴族としての誇りをもって生きてきた母にとっては、息子が貧民の娼婦を生涯唯一の女性とするなど耐えがたかったのだろう。
そんな母が一転して、ネリーを公爵夫人として迎えるという大胆な提案をみずからしてこようとは思ってもみなかった。
俺の知っている昔の母からは考えられないことだ。
母にはなにか心境の変化があったのだろうか。
考えてみれば、俺が先日母に会ったのは実に数年ぶりだった。
交流のなかった長い歳月の間に、母も俺の知らないいろいろな出来事を経験してきたのかもしれない。
母からの提案の内容自体は到底受け入れがたいもので、一考の価値もない。
しかし母が俺の気持ちを尊重してくれているという実感が湧き、身体中が満たされていくような感覚を覚えて、思わず母に一言、感謝の言葉をかけずにはいられなかった。
だがあの時のことを思い出すと、同時に厳しい父の声も頭によみがえった。
(お前のしようとしていることは、まるで鬼畜の所業だぞ)
そうだろうか? 夫が妻に子を産むよう求めるのは当たり前ではないか。
法的には正式な夫婦である以上、俺と閨をともにするのはあの女の義務だ。
ネリーと交わすような愛の儀式にはならないが、子どもをつくる目的で俺があの女を多少強引に抱いたとしても、罪ではないはずだ。
そして生まれた子どもの処遇について、父である俺が決定権を持つのも当然のことではないのか。
(だが人間界の、世間の常識とやらは違うのか…?)
俺は無意識に手で軽く口を押えた。
俺はまた間違ったのか?
あの夜のことが思い起こされた。
淑女らしからぬ狂気じみた笑い声をあげていたあの女のことが。
「旦那さまが私に子どもを産めとおっしゃる理由がわかりました。
旦那さまは、ネルラさまは失いたくないけれど私は死んでもいいと、そう思っていらっしゃるのですね」
吹っ切れたように晴ればれとした顔でそう言われた時、あまりの思いがけなさに俺は言葉を失った。
これまで一度だって、夢にもそんな風に思ったことはない。
彼女が死んでもいいなどと。
そんな俺の気も知らず、ザジが余計な軽口をたたいた。
「エリナが言うこと聞かないんだったら、殴ればいいんじゃねえ?
それでもごねるんだったら、面倒だから両手両足もいじまえ」
俺はザジの性格をよく知っているから、そのセリフを聞いてもいつものことだと軽く受け流していたが、あの女は俺に手足をもがれるかもしれないと本気で恐れたようだ。
俺が、あの女に子どもを産ませるだけ産ませて使いつぶし、役に立たなくなったら廃棄する道具として扱っていると信じ込んでいるらしかった。
そんな人間だとあの女に思われるのはひどく心外だったが、弁明をするのもおかしいような気がして、俺は黙り込むしかなかった。
「旦那さまは私に、ネルラさまの代わりに痛みや危険を引き受けて子どもを産めとおっしゃるのね。
私がお産で死ねば、生まれた子どもをネルラさまとお育てになれますものね」
その笑顔は無邪気で透明で壊れかけていて、母イーディスが思わずあれを抱きしめたほど痛々しかった。
俺は喉の奥からなんとか声を絞り出して、あの女に言った。
「俺はお前の死を願ってなどいない」
それを聞いたあの女はぴたりと笑いを止め、静かに俺を見た。
まるで怪物を見るかのような、恐怖や憎しみの混ざった不信のまなざしで。
(やめろ…そんな目で俺を見るな)
薄い青の瞳をまともに見ることができず、俺は叫び出しそうになるのを懸命にこらえた。
あの時、あの女は、父が言うように俺を鬼畜だと思っていたのだろうか。
(俺は、いつも間違える)
ベンチに腰掛けたまま、ふと夜空を見上げる。
ウィロー砦では満月だった月は半分ほどに細っていたが、それでもあたりを明るく照らしていた。
たくさんの星が砂金をまいたようにきらめいている。
あの女が息子を連れて王都を去っていった、あの夜もそうだった。
子づくりをするはずだった彼女は旅支度を済ませていて、俺に向かって離縁は覚悟していると言い放ち、簡単な別れの挨拶をした後、風のように軽やかな足取りで立ち去っていった。
ぶざまに置き去りにされた格好になったあの時の自分を思い出して、俺は顔をしかめた。
(あの女の思考回路は、いったいどうなっているんだ?)
あの時のこともそうだが、今回の襲撃事件の時の行動にしても理解に苦しむ。
身を挺して息子を助けようとしたらしいが、子どもと一緒に落ちて自分が下敷きになったところで、地面にたたきつけられた時の衝撃はほとんどやわらげられはしない。
親子そろって共倒れになるだけだと冷静に考えればわかることだというのに、高所から飛び降りるような無鉄砲さにはあきれるしかない。
幼い子どもを持つ動物の雌は危険だというが、人間でも、幼い子を持つ母親は特有の危うさがあるのは知っている。
今日、あの女はまさにそれだった。
(子を守る母の行動は動物的な本能によるものだということは、十分に知っているつもりだったが……常軌を逸している上に突発的、なりふりかまわず非理性的……まったく手に負えん)
俺は目を閉じて深くため息をついた。
あの女は、理解できないことが多すぎる。
ネリーとは大違いだ。
シンプルで裏表のないネリーの思考はわかりやすい。
そして、ネリーには嘘や悪意がない。
だから俺は、俺の意に反することであっても、ネリーの言うことなら受け入れられるのだ。
今回のこともそうだった。
俺は、ネリーが突然ザヴィールウッドにやってきた時のことを思い返した。




