月白の娘・1【外伝・ルドガー視点】
少し残酷な表現があります。ご注意ください。
「お前が9番目か。
なるほどのう。
子どもは時のかたまりよ」
初めて俺を見たウィレムが、感慨深げにそう言ったのを覚えている。
黒の森の館で、隠者のようなマントをまとった白髪の老人は、柔和な笑顔をしていた。
影にしか見えない人間たちとは違って、ウィレムは俺にもその表情がわかる数少ない者の一人だった。
”知りたがり“のジグに魂をもがれて、人間界とのつながりが希薄になった俺は、ノナを仮の母として黒の森の館で暮らすことになった。
黒の森は人間界と精霊界の交わる場所だ。
魂の欠損は、人間として生きる生命力の消失でもあり、俺はこの世に肉体を持ちながら、精神は常にもう一つの世界との間をたゆたっている不安定な状態だった。
館や森の住人たちは、そんな俺をいつも遠くから見守っていた。
ノナがそう命じていたらしい。
ノナは俺の養い親として、俺を育てる環境を整えていたのだ。
そのうちの1つが、森の民の間でも特に賢者として名高い叡智のウィレムを俺の教師にしたことだった。
ウィレムは森のことだけでなく、人間界での事象に精通していた。
地理も歴史も、社会や風俗のことも何でも詳しく知っていた。
俺は自分から関心を持って人間界の知識を吸収しようとは思わなかったが、ウィレムは俺が将来フレイザー公爵となることを念頭に置いて、それに必要なさまざまな科目を選んで教育を施してくれた。
実際ウィレムに教わったことは、公爵家の当主となってから大いに役に立った。
「お前は教えがいのある子よな。
学んだことはすぐに覚えて理解し、身につけている。
頭の良さで言えば、“知りたがり”にも引けを取らんだろう」
ウィレムはよく俺にそう言った。
だがその後でいつも、こんな風に付け加えた。
「これで魂片がそろっておればのう…残念でならんわい」
俺の心には、穴が開いているらしい。
子どもの頃に魂をもがれたせいだと、ノナが言っていた。
俺の魂をもぎ取った“知りたがり”のジグは、俺よりいくつか年上の子どもに見えたが、黒の森の精霊王の一人だから、実際の年齢はわからない。
だがノナはあいつを子ども扱いしていたから、精霊の中でも年若い方なのは間違いないだろう。
俺は、目の前で交わされたノナとジグとの間のやり取りを、はっきりと記憶している。
神代の森の神殿で、ノナは古代樹の幹から人間の姿を取って浮かび上がり、俺とジグの前に降り立った。
「ノナばあちゃん、こいつの魂から、ザヴィールの魂片を剥がしてやったよ。
うまくできただろ?」
ジグはそう言って得意げな顔で、大切に首にかけた袋の口を開け、中からそっと黒い塊を取り出した。
ジグの手のひらの上で、その黒い塊が規則的に脈動している。
ノナはそれをじっと見てから口を開いた。
「ジギー、お前はこれをどうするつもりなんだい?」
「どうって、ザジにやるけど?」
「ザジ? お前のあの子はザジというのかい」
「うん、いい名前だろ? ボクの弟だよ。
いろんなことを教えてやってるけど、何でもよく吸収するよ」
「そうだろうね。それでそのザジは今どこにいるんだい?」
「取り替え子になって、こいつの家に行った」
ジグは俺の方へあごをしゃくった。
「昨夜ニーヴの丘でこいつを見つけたんだ。
それでこっちに連れてきて、代わりにザジを人間界に行かせた。
ザジが帰ってきたら、人間界の珍しい話をいっぱい聞きたいな」
「ジギー…」
ノナはジグの手のひらを黒い塊ごと包み込んで、深くため息をついた。
知りたがりの子どもは不満そうに口をとがらせた。
「なんだよ、ノナばあちゃん。
こいつはフレイザーの子で、黒髪赤眼の貴重な9番目だ。
この魂片がそろえば、黒竜王ザヴィールが復活するんだろ?
てっきりばあちゃんは喜ぶもんだと思ってたのに」
ノナはちらりと俺に目をやってから、ジグに視線を戻した。
「ジギー、ザヴィールの盟約を知っているね?
黒竜王の魂片は、フレイザーの子を殺めた者には従わないよ。
お前が魂をもいだせいでこの子は死ぬかもしれない。
わかっているのかい?」
ジグは精霊王の品位などまるで感じられない素っ頓狂な声を出した。
「えーっ、なんでだよ!」
「人間の肉体は魂と密接に結びついている。
魂をもがれて身体に影響が出ないわけがないだろう。
いいかい、ジギー、思い出してごらん。
お前がいつだったか、両手足の生えたオタマジャクシを捕まえて、早くカエルにしてやろうとして尻尾を切り落としたことがあったろう。
あのオタマジャクシはどうなった?」
ジグはウッと言葉に詰まった後、苦い声で答えた。
「早くカエルになるどころか、すぐに弱って死んだっけ…」
「そうだ。尻尾を失くしただけではすまなかっただろう?
生命の灯火そのものが消えたんだ。
この子の魂も同じことだよ。
魂は肉体とともに成長して、子どもから大人になっていく。
やがて人生の過程を終え、天寿を全うして魂が肉体を離れる時こそ、成熟したザヴィールの魂片は自然にこの子の魂から分離するはずだった。
そういう自然の過程をすっ飛ばして、まだ幼い今の時期に魂の一部を無理やりもぎとってしまったら、残りの魂だけでこの肉体とつながっていられる力があるのかどうか。
魂が離れてしまったら、この子の肉体も死ぬんだよ」
丁寧な口調で言い聞かせるノナに、ジグはうつむいて小さな声で言った。
「そりゃあ、9番目の魂片が完全に成熟してから統合した方がいいに決まってるけど、そしたらザジの居場所がなくなっちゃうよ。ザジが消えちゃう」
今にも泣きだしそうに顔をゆがめたジグは、勢いよく顔を上げてノナを見た。
「そんなのやだもん!
だから9番目はザジと一緒でいいと思って、まだ小さいうちに魂片を剥がしたんだ。
でもボクは、この子を死なせるつもりじゃなかった。
どうすればいい、ノナばあちゃん?」
「そうだねえ…」
ノナは俺の方を見た。
「フレイザーの子、お前、名前は?」
その時の俺は、その緑の髪の女が大精霊ノナ・ニムだとは知らなかったが、問われるままに答えた。
「…ルドガー」
「ルドガー。ルー坊やか。
お前みたいな子どもが、どうして昨夜、ニーヴの丘なんかにいたんだい?
誰かがお前を連れてきたのかい?」
「……」
ノナの問いに、俺は口をつぐんだ。
そんな俺を、ノナは興味深そうに眺めて言った。
「ねえ坊や、ふつうはね、人間が魔女月夜にあの丘にいたら、命を失ったとしても文句は言えないのさ。
ただお前はフレイザーの子だ。
ノナの身内がお前を傷つけたことは、いくらか申し訳なく思うよ。
お前の両親からも、息子を返してほしいという祈りが届いているしねえ。
だからとにかく、お前を人間界へ戻してやることにしよう。
さあ、ノナの手を取りなさい」
俺は目の前に差し出されたノナの青白い手を見つめた。
そうして言われるままにその手に自分の手を乗せた。
次の瞬間、周囲の景色が黒く反転して、俺とノナ以外のものは黒白の世界をすごい勢いで流れていく線に変わった。
“知りたがり”の姿ももう見えない。
「フレイザーのルー坊や、ひとまずベンとイーダにお前を返してやろう。
人間界でお前がどうなるのか、ノナにもわからないけれどね」
ノナは緑色の瞳で俺を見下ろして冷厳な声音で言い渡した。
やがて黒白の世界が明けて前方に景色が開けてくると、そこは見覚えのある領主館の礼拝堂だった。
そこで長い時間祈りを捧げていたらしい両親は、俺を見て歓喜の声を上げていたが、俺には何も響かなかった。
ノナは俺の代わりに、俺の取り替え子になっていたザジを連れて精霊界へ戻っていったが、立ち去りぎわに俺に目を向けて言った。
「ルー坊や、とにかく拾った命だ。しっかりしがみつきなさい」
何を言われているのか理解もできないまま、俺はただぼんやりとノナを見送った。




