Child・9
私は今夜夫にどうしても確かめたかった疑問を口にした。
「あなたがセドリックに対して、フレイザー公爵家の後継者というだけではなく、ご自分の血を分けた息子であるという認識をちゃんと持っていらっしゃるのかどうか、お聞きしたいのです」
両手を組んでうつむき加減になりながら、私は夫に問いかけた。
「あなたは、フレイザー公爵家の当主として、貴族の女性と結婚して嫡出子をもうける必要があった。
私はそのための子どもを産む道具としてあなたに嫁ぎ、セドリックという嫡出子を産みました。
あなたにとっては、私はあなたとあなたの愛するネリー嬢との仲をさえぎる邪魔者であったかもしれませんが、子どもを守るためには私にも妻という立場が必要だったのです。
ですがもうセドリックは、公爵家の嫡出子としての立場を確立しています。
私がいつあなたと離縁しても、あの子の地位は揺らがない。そうですね?」
現状を客観的に口述して確認を取ると、表情の変化の少ない夫の顔にかすかな苛立ちが見えた。
「俺と離縁しても、か。
母上もそんなことをおっしゃっていたな。
お前が俺と離縁したら、母上はお前を父上とご自分の養女にするそうだ。
そうすればお前はフレイザー家に留まり、子どものそばに堂々といられるようになるからとな」
「え?」
私は驚いて目をみはった。
「そんなお話は初めて聞きましたわ」
「耳を傾ける価値などまるでない与太話だ。
当主の俺がそんなことは許可しないからな。
お前が俺の妹になるなど、冗談ではない」
ルドガーは眉根を寄せて吐き捨てるように言った。
確かに突拍子もない話だが、義母がそんな申し出をしてくれたのは善意からなのは間違いない。
それを全部否定するかのような夫の口ぶりに、私は不快感を覚えた。
「お義母さまは、私とセドリックのことを思いやってそんなご提案をしてくださったのでしょう。
ありがたいお申し出ですわ」
そう言った私に、赤い瞳で射殺すような視線が向けられた。
「ありがたいだと?
離縁してからもフレイザー公爵家に寄生するつもりか?
母上は、子どもが成長したらお前に再婚相手を見つけて我が家から送り出してやるおつもりのようだが、それを狙っているのか?」
「まさか」
あまりにも想定外のことを難詰されて、私は言下に夫の台詞を否定した。
「一体何のお話をされていらっしゃいますの?
私にはセドリックの他に望むものはありませんわ。
離縁についてだって、するもしないも旦那さまのお心一つだと申し上げているでしょう。
私はどちらにしても、息子と離れずにいられればそれでいいのです。
ですが、旦那さまはどうなのですか?」
私は再度同じ質問をして、いったん反れた話題をもとに引き戻した。
意味の分からない叱責をしてくる夫に、もう一切の遠慮をするつもりはなかった。
「私のことはいいのです。
でもセドリックのことを、旦那さまは大事に育ててくださるのですか?
子どもを愛するつもりがないのなら、父親になる資格などありませんわ。
何の罪もない子どもが哀れです。
ネルラさまと二人だけの閉じられた世界に、永遠に引きこもっておいでなさいませ」
「なにを…!」
ルドガーの言葉をさえぎって、私は自分の思いをぶちまけた。
「公爵家の種馬扱いが嫌だとおっしゃる、あなたのお気持ちはわからないでもありませんわ。
でも今のあなたは、セドリックにその嫌な役目を押しつけて、ご自分だけ自由になろうとしておられるのではありませんか。
幼い息子を身代わりにして成就させる利己的な愛なんて、なにが真実の愛なものですか」
「貴様…!」
そう言ってルドガーは私をにらんだが、その視線には覇気がなかった。
夫にも、セドリックを身代わりにして公爵家当主の義務から逃れることに、少なからず後ろめたさはあるのだろう。
だからといってそれですべてが許されるわけもない。
夫の身勝手な主張に業を煮やしていた私は、さらに続けて心中を吐き出した。
「やっぱり、あなたが大切なのはネルラさまだけなのですね。
私やセドリックのことはどうでもいいのでしょう。
あなたにとって、あの子は公爵家の跡継ぎとしての価値しかない。
優秀な跡継ぎとしての世間体が保てなくなれば、あなたはあの子のことも、あの子を育てた私のことも、役立たずとののしって何のためらいもなく切り捨てるのでしょう!」
「何を言っているんだ?
話が飛躍しすぎている。
言いがかりもいいところだ」
はっ、と小馬鹿にしたように夫は吐き捨てた。
その瞬間私は、自分の顔からすっと表情が消えていくのがわかった。
「…いいえ、言いがかりではありません」
自分でもぞっとするほど冷え切った声が出た。
息子が高熱を出して寝込んでいる寝室にまで踏み込んできて、狼藉をはたらいた前世の夫。
やせ細ったセドリックが、母の私をかばってくれた、そんな献身にもまったく心を動かさずに、息子に剣を向けてきたあの酷薄な表情。
そして、息子の前に身を投げ出した私の身体を袈裟がけに斬りつけた無機質な剣。
その剣の向こうに見えた、私の血しぶきと同じ色の赤い瞳。
前世で絶命したあの時の光景が脳裏にまざまざとよみがえり、理性のたがのはずれた私は、無意識のうちにさらに核心部分を口走った。
「あなたは私を殺すでしょう。
あの子はあんなに弱っていたのに、大人のあなたに太刀打ちできるはずのない子どもだったのに。
あなたは容赦なくあの子に剣を向けて、それをかばった私を斬り殺すのよ!」
自分の言葉にはっとして、思わず口を押えたがもう遅い。
こんなことを口走ったら正気を疑われてしまうに違いなかった。
前世で起こった出来事は、私にとってはまぎれもない現実ではあるが、今世の夫から見ればまるっきり妄想でしかない。
うかつな自分を呪いつつ視線を上げると、その先には、ほの白い月光の下、凍りついたようになって立ち尽くしている夫の姿があった。
それはまるで微動だにしない氷の彫像のようだった。
「ど…どうして……」
私は、ぼうぜんとして問いかけた。
「どうして、あなたが泣くのです……」
動揺して揺れている私の視線の先では、硬直した夫のうつろな両眼から、滂沱の涙があふれていた。
その赤い両目は焦点が合っておらず、視線は宙に浮いたままだ。
血の気の引いた青白い顔からは表情がまったく抜け落ちている。
夫ルドガーは、自分が涙していることに気がついてすらいないようだった。
それでもなぜか私には、彫像のように立ち尽くしているルドガーの、心の奥が視えるような気がした。
セドリックが今よりもっと幼いころ、私の姿が見えないと泣きながら探していた、あの時のあの子と同じように見えたのだ。
小さな子どもが不安に押しつぶされそうになって救いを求めているような切なさ、頼りなさ、いじらしさ。
そんなものが、英雄と呼ばれる騎士団長のたくましい身体の向こうに透けている気がした。
だがそれだけではなく、さらにその奥の奥に、もっとずっと深くて重たい感情が渦巻いていることが、私にはひしひしと伝わってきた。
それは、言うなれば胸が引き裂かれるような、悲痛で激しい……魂の慟哭だった。
どうしてルドガーはこれほど悲壮な思いを抱えて、それにさいなまれているのだろう。
魂をもがれた彼には、感情の揺らぎがほとんどなくなったのだと義母は言っていたのに。
理由はわからないもののその痛々しいありさまに、思わず私は夫に歩み寄って手を差しのべた。
ドレスの隠しから取り出したハンカチで、頬に流れる涙を拭こうとすると、ルドガーは私の手の感触で目が覚めたように、びくりと痙攣気味に体を揺らした。
そして、初めて自分の涙に気づいて驚いた顔になり、どうしたのかと問うような視線を私に向けてきた。
その表情が、またもや幼いころのセドリックにそっくりだったので、私は思わず息を呑んで夫を見つめた。
するとルドガーは急に身をひるがえし、私に背を向けた。
そしてそのまま早足で逃げるように庭園の奥へ去っていった。
私は引き止めようとしたが、何となく夫に声をかけるのを思いとどまり、音もなく闇へ消えていく広い背中を見送った。
私の前世の記憶を聞いたルドガーは、なぜあんな涙を流したのだろう。
前世で私が殺されて息絶えた後、私を殺したルドガーがどんな人生を送ったのか、私にはわからない。
その人生の中で、妻であった私を斬り殺したことを、夫はどのように感じ、受け止めていたのだろうか。
前世で彼は、あんな風に涙を流したのだろうか。
(後悔……して……?)
今は誰もいなくなった庭園を、青白い月光がほのかに照らしだしている。
その庭園の向こうから、花祭りを祝う夜会の喧騒がかすかに聞こえていた。




