Child・7
腰高のフェンスに連なるバラのアーチの下で、夫ルドガーは沈黙して立ち尽くしていたが、やがてひとりごとのようにつぶやいた。
「…愛? 俺の愛は生涯一人だけ、ネリーだけのものだ。
あの子どもは父上と母上の希望で、フレイザー家の跡継ぎとして生まれた子どもでしかない。
あれを公爵家にふさわしい後継者に育てるのが、嫁いできたお前の役目だろう」
私は全身の力が抜けていくように思えた。
ルドガーには私の言葉は何一つ届かないという無力感にとらわれる。
でもだからといって、何もわからないまま彼に殺される未来を甘んじて受け入れるわけにはいかなかった。
義母イーディスのルドガーに向ける母心には胸打たれるものがあるし、ルドガーが今日私とセドリックの命を助けてくれたことには感謝している。
だとしても、もしルドガーが、ネルラのためなら私やセドリックを犠牲にしてもかまわないと思っているのであれば、彼を夫として、あるいは家族として受け入れるなど、到底できない相談だ。
「息子であるセドリックを愛するつもりはない、そうおっしゃっているのですか?」
そう確認する声は語尾が震えた。
私は無意識に、月明かりに照らされたセドリックの寝室の窓に目をやった。
昼間の魔物の襲撃のショックで泣きながら眠りについた、幼い息子の顔が脳裏に浮かぶ。
再開したパレードの行列でセドリックを抱えて黒馬に乗っていたルドガーは、幼い息子を慈しむ父親に見えた。
今まで一度も目にしたことのない夫の姿だったが、彼にもそういう一面があるのだと思えて少なからずうれしかったのに。
私は血を吐くように声を絞り出した。
「だったらあなたは、ここへ何をしにいらっしゃったのです?
セドリックの身を案じて、あの子を守るためにいらしてくださったのではないのですか?」
ルドガーは無表情で、逆に私に質問してきた。
「昔、ウィレムは俺に、子どもは時のかたまりだと言った。
お前にはその意味が分かるか?」
「え?」
戸惑う私から目を離し、ルドガーは追憶するように夜空を見上げた。
「黒の森の館でウィレムからそう言われた時、俺には何のことかわからなかった。
それに正直、大した意味のあることだとも思っていなかった。
今までずっとそんなやりとりがあったことすら忘れていたくらいだ。
だが今俺はどういうわけか、それが気になって仕方ない」
「……」
どんな反応をしていいかわからず黙り込んだ私に、ルドガーは視線を戻して言った。
「お前は黒の森の館で暮らしている。
その意味を聞いたことがあるのではないか」
ウィレム、というのは誰なのかわからないが、とにかく私は夫に返答した。
「残念ながら、私はそんな言葉を存じません。
ですが思うに、子どもは時のかたまりだというのは、幼い子どもには、この先どんなことでも成し遂げられる無限の可能性を秘めた未来がある、という意味なのではないでしょうか」
「未来……」
私の答えを聞いたルドガーは思案げに視線をさまよわせた。
「だから守るのか…」
「僭越なことを申し上げました。お許しくださいませ」
恐縮している私の声が耳に届いているのかいないのか、ルドガーは宙を見つめてうわ言のように言った。
「お前が王都を出た後、俺はフレイザーのタウンハウスへ戻った。
独り身でいたころのように領地経営と騎士団の業務を両立させていくためだ」
「はい、うかがっております。
もともと私がいなくなれば、旦那さまはネルラさまを伴って公爵邸へお戻りになるだろうと思っておりました。
ですから旦那さまの執務に支障のないように、私が仕事で使用していたものはすべて、以前旦那さまがお使いになっていた時と同じ状態に戻しておくようにと、使用人たちに申しつけておいたのです。
何かご不便がありましたでしょうか?」
「不便はなかった。
足りないものは何もなかったからな。
ただ見慣れないものが増えていた。
執務室にはゆりかごが残っていたし、食堂には子ども用の椅子、図書室には絵本。遊戯室にはぬいぐるみや玩具」
「それは…」
王都の公爵邸を離れる時、急なことだったので身辺整理が追いつかなかった。
使用人たちには、残していかざるを得ない私とセドリックの身の回りの品を、片付けて収納しておくように指示してはいたのだが、私の私的な空間ではなく公爵家当主の使用する領分に置いてあったものの中には、撤去しきれなかったものもあったのだろう。
執務室のゆりかごなどは、セドリックが赤ちゃんだったころ、当主代理として公爵家の領地運営の仕事をしながらあの子を世話するために、私が持ち込んでいたものだ。
とっくに使われなくなっていたのだが、見事な細工が施されていたので執務室のオブジェのように扱われていて、すっかり部屋の装飾になじんでいたため、そのままにされていたようだ。
私は夫に頭を下げた。
「邸内の整理が行き届かず、旦那さまをご不快にさせてしまったことをお詫び申し上げます。
お目ざわりでしたら、私どもが残していったものはどうぞお好きに処分なさってくださいませ」
「ああ、そうだな。
ものの処分はいつでもできる。
そんなことはどうだっていい」
どこか焦れたような投げやりな態度で、ルドガーは応じた。
どういうことなのだろう。
ネリー嬢をネルラという貴族風の名前に改名させて、私とセドリックが退去した後の公爵邸でルドガーは彼女と暮らし始めたのだが、ほんのひと月ほどでネルラは元の平民街の家へ戻ってしまったと聞いている。
まさか、ネルラがルドガーの住む公爵邸から出て行ったのは、名ばかりの妻である私の残していった品々が原因だったと責められるのだろうか。
私は身構えたが、ルドガーはそのことにはそれ以上言及せず、元の話題に戻った。
「俺はお前に詫びろと言っているんじゃない。
ウィレムの言葉の意味を考えているんだ。
子どもは時のかたまりだという、あの言葉の意味を」
「ウィレムとは、一体どういう方なのですか?」
先程から夫が口の端に乗せるウィレムと言う名の人物について問うと、ルドガーは少し眉を上げた。
「叡智のウィレムだ。
ボルトンから何も聞いていないのか?」
「黒の館の執事のボルトンから?」
私は何のことかまるでわからず、途方に暮れて夫の顔を見つめた。
「フィンバース王国を興した英明王ウィレムと、ボルトンは何か関係があるのですか?」
夫は無表情に赤い瞳をめぐらせ、こちらを見た。
「何も聞いていないのなら、余計なことに首を突っ込むな」
「はい…」
容赦なく切り捨てられて、私の心はまた凍りついた。
夫はそんな私に言い放った。
「ウィレムのことすら知らないお前になど、聞いても無駄だったな」
「…申し訳ありません」
私は謝罪したが、心の中にはわだかまりが残っていた。
それを胸にしまい込むことはしたくなくて、私は口を開いた。
「旦那さま、あなたはその言葉の意味を知るためにここへいらしたのですか?
セドリックを守るためではなく?」
ルドガーの赤い瞳に迷うような色が浮かんだ。
「あの子どもを目にしてから、俺はどうも落ち着かない。
なぜなのか理由もわからない、こんな状態は不快で仕方ない。
しかもお前は、身の程もわきまえずあれを守ろうとして命を投げうつのだからな。
それを思うと、どうにもいたたまれなくなって無意識に足がここへ向いたのだ。
特にあの子どもを守ろうとしたのではない。
あれにはザジがついているだろう」
血を分けた息子を他人任せにするような夫の発言に、私は我慢できず反論した。




