月白の娘・9【外伝・ルドガー視点】
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
ネリーと暮らしていて不満は何もなかったが、どこかぽっかりと穴が開いたような虚しさが常につきまとう。
俺はそれを認めることができず、自分の心から目を背け続けていた。
そうして4年の月日が経ったころ、俺はある出来事がきっかけで、ずっと放置していた妻に二人目の子づくりを要求した。
だが当然拒絶され、妻も息子も両親も俺を残して王都を去った。
誰もいなくなった公爵邸に一人取り残された俺はその夜、鬱屈した思いを抱えて数年ぶりの邸内を散策した。
そこでふと思い立って図書室に立ち寄り、重厚な扉を開けると、何万冊という本を収蔵してある書架の列が目に飛び込んできた。
その空間に足を踏み入れたとたん、俺は剣を振るう時と同じように胸が躍るのを感じた。
幼少期に黒の森の民と親しく交わって過ごした俺は、精霊たちと感覚が近い。
彼らの言う「深淵」に近づくと、俺は自分の魂の歓びを感じるのだ。
剣を振るう時、俺は自分が世界の一部であるかのように感じ、魂が「深淵」に触れる感覚がある。
学問でも武術でも俺は人並み以上にこなせるが、特に剣術を極めていこうと思う理由は、それが魂の歓ぶ道だという実感があるからだ。
俺は、この図書室でそれに近いものを感じていたことを思い出した。
感情に乏しく、他人に共感する能力のない俺には、人とのつきあい方がまるでわからなかった。
両親の実子でもないヨシュアの方が、俺よりよほど公爵邸に関わる人間たちになじんでいたと思う。
ヨシュアは誰にでもかわいがられて、あいつのまわりにはいつでも人が集まってきた。
俺はヨシュアのように人から好かれることはなく、親しい人間もいなかった。
人を喜ばせるどころか、悪意などまったくないのに、俺によって傷つけられたという人間が後を絶たなかった。
父や母は俺に、人とのつきあいについて説いて聞かせてくれたが、俺にはわからないことが多すぎた。
人との関わり方を、俺はいつも間違える。
うまくできないのだ。
それが骨身に沁みていたので、俺は人から離れて独りで行う作業を好んだ。
孤独は俺にとってそれほど苦ではなく、独りになれるこの図書室は心休まる空間だった。
それに、多くの書物で満たされたこの知の殿堂は、真理の源である「深淵」に通じているのが心地よい。俺は、かつてここで読書をしながら、「深淵」に触れて過ごしていたのだ。
振り返ってみると、ネリーとの暮らしの中で、ほとんど本を読んだことはなかった。
ネリーは貧民でもともと文盲だったので、読書の習慣などなかったのだ。
ただ、ネリー本人が読み書きができるようになりたいと希望したので、俺は彼女に教師をつけてやった。
ネリーは、何年もかけてようやく簡単な文章を読み、平易な短文を書けるようになった。
どうしてこんなに上達が遅いのか俺には理解できなかったが、思い返すと今までにもそういうことはよくあった。
「貴方のような優秀な人にはわからない」
「貴方のような恵まれた境遇にいる人にはわからない」
これまでさんざん、他人からそんな風に言われてきた。
ネリーの学習の進度についても、俺の感覚がおかしいのだろう。
文盲の平民はざらにいるし、ネリーには俺がついているのだから何の問題もない。
そんなネリーと暮らす平民街の家に、書籍は必要なかった。
俺は、騎士としての鍛錬は毎日欠かさなかったが、仕事の書類や業務に不可欠な資料以外、まったく本を読まずに何年も過ごしていた。
読書に興味のないネリーと同じそんな生活を、俺は疑問もなく受け入れていた。
貴族として必要な知識はとうの昔に頭に入っている。
騎士団の業務に必要な書籍は騎士団長の執務室にそろっている。
それ以上の読書は必要ない、そう思っていた。
だがあの夜、家族全員が去った公爵邸の図書室を訪れて、俺は無自覚だった自分の閉塞感に気がついた。
ここでは息ができる。
そう、息ができると実感したのだ。
久しぶりに見る膨大な書物の海に圧倒されながら、俺は不自然に身体を折りたたんで閉じ込められていた狭い箱から抜け出たような、解放された気分になって深呼吸した。
ずらりと並んだ本の背表紙のタイトルが目に飛び込んでくる。
手近にあった一冊を手に取って開いてみた。
そこに書かれた文章を読んでいると、活字から広がるものが体内に染みこんでいくような感覚があった。
今まで自分の中の大切な何かを見失っていたことに、俺はようやく気がついた。
図書室の奥には、講義や学習のために備えつけられた広い机と数脚の椅子がある。
その周囲の壁面の書架には家族それぞれの書棚が割り振られている。
軍事関係の建築物や戦術、兵器などについての書籍が並ぶ父の棚、刺繍や服飾、宮廷作法などについての実用的な書籍が多い母の棚にある本には、俺も見覚えがあった。
両親の棚の隣にある俺の棚は、俺が最後にここを訪れた5年前からまったく変わっていなかった。
そしてその隣に、見慣れない二つの書棚が設けられていた。
一つの棚は、子どもでも手が届くような低い位置にだけ本が並び、ネリーにも読めるような簡単な絵本や読み物が置かれている。
もう一つには、政治学、経済学、経営管理や土木工学といった、事業を営む紳士が読むような本がずらりと並んでいたが、それは現公爵夫人であるエリナの棚だった。
そこにあるのはいかめしい装丁の分厚い本ばかりだが、どれも公爵領運営に必須の書だ。
最下段にフレイザー公爵領の昨年の年報と、手書きの紙をまとめた束があった。
紙の束は、どうやらこの棚に並んでいる本を教本にして教師から講義を受けた時のノートらしい。
読みやすい丁寧な女文字で、講義の内容が簡潔にまとめてあった。
年報にも、領内の作物の収穫量や領民の人口動態などの統計のところどころに、紙の束と同じ筆跡の優雅な文字で覚書のようなコメントが付けられていた。
「治水工事の検討必要」「新産業の支援金見積もる」「新耕作地に入植者募る」等々、幼いころからザヴィール地方の情勢を詳しく知っている俺の目から見ると、どれも驚くほど適確な内容のメモだった。
彼女の実家のリズリー家は領地を持たない宮中伯だから、結婚するまで領地運営の経験はなかったはずだ。
俺は妻がここまで公爵領の運営に真剣に取り組んでいるとは思っていなかった。
女の身で領主の仕事をこなすなどほとんど例のないことだし、ましてや妊娠・出産後、女手一つで赤子を育てながらでは無理だ。
おそらく前公爵である父ベニートが相談役となり、信頼のおける補佐人をつけるなりしているのだろうと思っていた。
だがこの書棚の蔵書を見る限り、どうやら彼女は領地運営を実際に自らの手で行っているようだった。
書棚には、ほかにも育児書や、読み古された物語や詩集などが並んでいたが、中に一冊だけ絵本があった。
「銀髪のリックと黒い竜」。
それは、魂をもがれた俺が両親と離れて黒の森の館で暮らしていた時、母イーディスがザジを通して俺に送ってくれた本だった。
ザヴィール地方では昔から親しまれている絵本で、俺は、体調が悪い時でも繰り返し読んでいたくらい、この絵本が好きだった。
もちろんこれは、俺の本ではない。
自分で名前を書いた俺の本は今でも、黒の森の館の封印された部屋にあるはずだ。
俺は書棚から「銀髪のリックと黒い竜」を取り出して開いてみた。
完全に開き癖がついていて、子どもの指の跡らしき汚れが随所にあった。
これは息子の、よほど気に入りの絵本なのだと察せられた。それが母親の本棚に置いてあるということは、この母子の関係がそれだけ近しいものだということなのだろう。
生まれた時以来息子に会ったことのない俺には、推測することしかできないが。
平民街の家では、俺がいる時には外部との行き来がほとんどなかった。
ネリーとの生活には何の混乱もなく、波風も立たない。
毎日は同じように過ぎ去っていき、何の変化も起こらなかった。
今日は昨日の延長であり、明日も今日と同じ暮らしが続いていく、二人だけの予定調和な日々。
その時ふと、子どもは時のかたまりだと言ったウィレムの言葉を思い出した。
あれがどういう意味だったのか今でもわからないが、俺の目の前にある本棚が、一つの答えのように思えた。
5年前から一切変わらず時の凝った俺の本棚と、公爵夫人としての責務を果たすために積み重ねた、努力と進歩の足跡が刻まれている妻の本棚。
眼前の二つの棚は、俺とエリナの、離れて過ごした各々の時間のかたまりだった。
俺が『真実の愛』にこだわり、ネリーと二人で漫然と過ごしていた歳月、俺が放置していた妻は進んでこれだけ多くの書物を読み、自らの手で公爵領運営を行うために必要な知識を学んでいた。
父親不在の家で、幼い息子を女手一つで育ててきたエリナは、いつの日か成長した息子に豊かな領地を手渡すつもりだったのだろう。
公爵領の領地運営と後継者の育成、一人でその二つを両立させるのは至難の業だ。
それをこなしてきた血のにじむような5年間の道のりを、エリナの本棚は無言で訴えかけてくるようだった。
妻がそんな並々ならぬ努力をしていた間、俺は何をしていたのだ?
そう自問して己を振り返ると、思いもよらぬ虚無感と焦燥感が押し寄せてきて、俺は少なからず動揺した。
ネリー以外の女に心乱されるのを恐れて、妻の姿を見ず、声も聞かず、決して近づかないようにしていたのに、それでもエリナは、こうして否応なく俺に存在を知らしめる。
ネリーとの平穏な暮らしで、こんなに心が波立つことはなかった。
ネリーは日常のささいなことで俺と意見を異にすることはあっても、最終的に俺を否定することはない。
決して一線を越えて踏み込んでくることはないとわかっているネリーとの毎日は、常に穏やかな凪だ。
世間から隔絶されたあの家では、現状を乱すものは何もない。その代わり、新しいものも何ひとつ生まれなかったのではないか?
ネリーと過ごす長い凪の時間に慣れすぎて、俺は、それがよどみや停滞でしかないのかも知れないことに思い至らなかった。
だが妻の本棚は、ただそこにあるだけで俺に容赦なく真実を突きつけてきた。
目をそらしてきたすべてのものを照らしだしたその光に、俺は激しく心を揺さぶられる。
まぶしくて直視できないのに、懸命に避けようとしても、心が求めてやまないのだ。
失うことなど考えられない、なくてはならないこの光とどう向き合えばいいのだろう?
俺は自分自身に問いかけ、最終的な結論にたどり着いた。
閉じた世界の外に出ていかなければならない。
むき出しの人間の欲望が渦巻く世界で、どんなに激しい雨風や大波に打たれても、光と同じ時を刻んでいかなければならない。
その答えが肚に落ちると、長い眠りからさめたような気がした。
(平民街の家を出て、公爵邸へ戻る。
フレイザー家当主として、もう一度高貴な者の義務を果たすために)
そう心を決めたとき、俺の中で止まっていた時間が再び動き始めた。




