月白の娘・7【外伝・ルドガー視点】
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
ジグにもがれた魂の傷は深くて、小さな子どもだった俺の身体にさまざまな障害をもたらした。
感情を失くしたことはいちばん大きかったが、身体の不調も俺を苦しめた。
頭痛、吐き気、発熱、発疹、時には痙攣や呼吸障害を起こすこともあった。
黒の森の館では、人間の医術の心得を持った森の民が俺専属の医療チームを組み世話をしてくれていた。
彼らは人間のような感情を持たないが、体力が削られてやせ衰えたちっぽけな子どもを、手を尽くして救おうとしてくれていたと思う。
治癒魔法や鎮痛剤でも抑えきれない痛みや不快感に、俺は毎日悩まされた。
魂をもがれたせいで、その苦しみに恨みや憎しみといった暗黒の感情が伴わないで済んだことは、俺にとって不幸中の幸いだったかもしれない。
ノナは仮の母として、緑の髪の人間の姿に身をやつし、黒の森の館の周囲に結界を張り巡らして心身ともに不安定な俺にずっと寄り添ってくれた。
ある時、自分の足で歩けないほど衰弱した俺を、ノナは自分の愛馬アトラスに乗せてくれた。
「アトラスはお前がお気に入りのようだねえ、ルー坊や。
この子が背に乗せる人間はお前だけだよ」
ノナはそう言って笑いながら、アトラスで天空を駆けた。
アトラスの通った跡は明るい光を放ち、そこからきらきらと光る粒子が下界へ降り注いでいるのが見えた。
それは黒の森の大精霊ノナ・ニムの祝福の光だった。
ノナはその時、俺の命がもうもたないだろうと思ったのかもしれない。
だが俺は、アトラスの背に乗って見る世界の風景に、失くしたはずの感情が動いた。
周囲に誰もいない空の真ん中で、雲の間を縫って駆けていく、天馬アトラス。
よどんだ俺の周囲の空気を吹き払っていく、冷たい上空の風が心地よかった。
その日を境に俺は心身のバランスが整い始め、体力も次第に回復していった。
アトラスは、ノナがいる時は黒の森の館の庭へ来るようになり、ノナの天空散歩の時だけでなく、いつでも俺をその背に乗せてくれるようになった。
俺ほど、フィンバースの大精霊が目をかけてくれた人間はいないと、森の民の誰もが口をそろえてうらやんだものだ。
だがノナがそこまで俺に肩入れしてくれたのは、それだけ俺が危なっかしい存在だったからだ。
当時の俺は、生きるということに何の執着もなかった。
魂は半分肉体から抜けかけていて、動物的な生存本能も失われていたのだ。
俺の過ごす世界には色がなく、そこにいるのは影絵のように無味乾燥で味気ない者たちだけだった。
そんな日々の中で唯一、月夜の晩に見る夢だけが俺の救いになった。
夢に出てくる金髪の少女は、いつも生き生きとした光を放ち、彩りに満ちていた。
彼女は長い金色のまつげに縁どられた青い目で俺を見つめていて、その澄んだ瞳は俺の心にあたたかい灯をともす。
バラ色の頬をした彼女を満月が照らし、かすかにわたる祝ぎ歌の優しい魔力があたりに満ちている。その夢を見るたびに、俺は自分の内に生命力が少しずつ回復していくのを感じていた。
父ベニートは言う、「生涯一人の女性を愛せ」と。
それは竜人族にとっての番だ。
あの少女こそが自分の番であると俺は確信していた。
しかし、一生のうちに、真の運命の番に巡りあえる幸運は滅多にあるものではない。
魂でつながれた真の番は、魂の時間で生まれてくるからだ。
限りある人間の肉体の時間と悠久の魂の時間は、嚙み合わないことが多い。
俺と同時代に俺の番が生を受け、更に俺と出会うというのは、奇跡と言ってもいい。
竜人族の中でも、一生のうちに魂の番と出会える者はほとんどいない。
だから、心に決めた相手と竜の鎖をつなぐことができれば、それが生涯の番となるのだ。
そうなった相手は魂の番と同様で、その絆を裏切るようなことをすれば竜の鎖は暴走し、己の身を滅ぼすと言われている。
しかし、竜の鎖をつなぐこと自体、今ではできる者がいなくなり、伝説として語られるだけになっているようだった。
現に父ベニートは竜人族の血がそれほど色濃くないせいか、母イーディスとの間に竜の鎖をつないでいない。
だが、竜の鎖はなくとも父と母は仲睦まじい夫婦であり、お互いを唯一の相手としている。
番や竜の鎖にこだわらなくとも良い伴侶を得て幸せな結婚生活を送ることはできるという好例だろう。
今生で俺は、自分の魂の番とはすれ違いになってしまったらしい。
ジグにさらわれたあの晩に出会った祝ぎ歌の女は、俺の魂の番である夢の少女の成長した姿だった。
彼女は母イーディスと変わらないくらいの年齢だったから、俺と夫婦になるには世代がずれてしまっている。
それに後になって知ったところでは、あれは祝ぎ歌の魔女マグダレーナ・リズリーであり、リズリー伯爵夫人として夫君との間に子どもももうけたものの、若くして亡くなったということだった。
だから俺は、魂がつながれた真の番と今生で結ばれることはないのだとわかっていた。
それでも、俺の夢に少女の姿で現れるマグダレーナは、暗くて無機質な世界で無意味にただたゆたっているだけの俺にとって、たった一つの心の支えとなっていた。
夢の中で彼女に会えるだけで、俺は吐き気がするような現実世界の不条理に耐えられる。
赤猫のザジはそんな俺の理解者だった。
保護者であるジグが黒の森を追放されたことで、俺と一緒にノナの庇護下に入り、黒の森の館で俺と兄弟同然に育ってきたザジ。
俺たちは魂が近いし、それに加え赤猫が本来持っている特性もあって、ザジは何度か俺とあの夢を共有したことがあった。
だからザジは、俺が夢で会っている、魂でつながれた俺の真の番である少女を知っていたのだ。
当初名前のわからなかった彼女を、俺たちは月白の娘と呼んでいた。
「ルド、俺は人間のことはわからねえけど、あのネリーって女、月白の娘とは違いすぎる。
黒の森の一族とは相いれないと思うぜ。
ノナばあさんが言ってた。
あの娘は深淵を汚す、饐えた匂いがするってさ」
「饐えた匂いだと…!?」
足音も荒く祭壇へ駆け寄ると、赤猫は危険を察知したように素早くそこから飛びのいた。
俺は祭壇の上を両手で叩くと、天に向かって吠えた。
「ノナ! 母さんまでそんなことを言うのか!?
俺がこの世に留まる楔が必要だった時、ネリーの生命力が俺を救ってくれたんだ!
ネリーは竜紋を持っている!
魂の番ではなくとも俺は彼女と契りを交わし、竜の鎖はつながれた!
ネリーが過去に娼婦だったことは関係ない!」
「竜紋? あの娘、竜紋を持ってるのか?」
赤猫が疑わしげにつぶやいたが俺は聞く耳を持たなかった。
「もういい!
俺は俺の選んだ女と添い遂げる!
ノナの加護も祝福も必要ない!」
「おい、ルド!」
あわてたようなザジの制止の声を振り切って、俺は大股で通路を横切って乱暴に扉を開けると、そこで待っていたネリーを連れて礼拝堂を後にした。
「ネリー、心配するな。俺の妻はお前だけだ」
降り出した雨を避けるためマントをかぶせてやりながらそう言うと、ネリーは顔を曇らせた。
「あたしは、ルディの妻じゃないよ…」
「まわりが何を言おうと関係ない。
お前には竜紋が浮かんだのだから、俺の妻だ」
「竜紋なんて、あたし知らない。見たことないよ」
確かにネリー本人は竜紋を見たことがない。
俺が彼女と一つになり、彼女が絶頂を迎えた時だけ、竜の鱗の形をした痣がネリーの胸元に浮かび上がるのだ。
薄い赤色で形はややいびつだが、それは竜紋に違いなかった。
竜人族の血を引く俺と、竜の魂の鎖がつながれた証だ。
「大丈夫だ、お前に竜紋が見えなくても俺は見ているから。
お前は俺の真実の愛の相手だ」
「う、うん…」
マントの下で身を寄せ合って、俺とネリーは吹きつける雨の中、暗い道を歩いていった。




