月白の娘・5【外伝・ルドガー視点】
少し残酷または性的な表現があります。ご注意ください。
「無礼者。人を指さすのではない」
取ってつけたように口にしたその台詞は空虚だった。
実のところは、この子どもにルディという愛称で呼ばれたのが不快だったに過ぎない。
その自覚はあった。
ネリーと男女の仲になって、彼女は俺をルディと呼ぶようになった。
それまで誰からもそんな呼び方をされたことはなかったが、父と母がお互いを、ベン、イーダと呼び合っているように、親しい仲なら子どものような愛称で呼び合うものなのだろう。
黒の森での呼び名とは違っていたが、俺はどんな風に呼ばれようと気にならないし、どうでもよかった。
今思えばあの当時の俺は、子どもの親になる未来などまったく想像していなかったのだ。
(名を呼ばれる相手によって、許せないような呼び方もあるものなのだな)
子どもの手をはたき落とすなどと大人げない振る舞いをしてしまってから、そんなことが初めて腑に落ちた。
この黒髪の子どもとその母が、ルディという名を口にするのは耐えられないと感じる。
たかが愛称程度のことなのに、これほど受け入れがたいのはなぜだろう?
愛するネリーからだけの特別な呼び名だからか?
だが仮に、この二人にルディという呼称を口にすることを禁じたとしても、ひりつくような胸の痛みが治まるとは思えなかった。
これは、ネリーだけに許している呼称を彼らが冒涜したという怒りではなく、ネリーが俺を愛称で呼ぶことを、なぜか彼らには知られたくないという思いから来る痛みだった。
こんな感情を俺は知らない。
俺は人間が嫌いだ。
両親にさえ強い愛着を覚えているとは言いがたい。
3歳の時ジグに魂をもがれてからは、俺は感情をほぼ失った。
周囲の人間は影にしか見えず、枯渇した情緒は他者との関わりにおいて常に不安定だった。
それでも何とか、黒の森の館でノナの庇護を受けて幼少期を生き延び、人の世界へ戻ることができた。
フレイザー家を継ぐ者として、7歳で王都へ出てきてからは、武術はもちろん、学問も、音楽も、ダンスも、貴族社会で生きていくための社交に必要なものを学び、すべて難なく身につけてきた。
そんな俺を、周囲の者はみな神童と誉めそやした。
ただ、俺にはずっと仲間や友人といった存在はいないままだった。
俺自身は特にそれを望んでもいなかったし、一人でいる時間が俺にとっては何より大切で、呼吸をするのと同じくらい必要なことだった。
自分を愛してくれている父や母とでさえ、長時間ともに過ごすと俺は息がつまって苦しくなってくる。
公爵家の跡継ぎとして、両親の言いつけに従うことは当然と受け止めていたし、高貴な身分に伴う責務を果たす覚悟もあったが、本当は黒の森にいた時のように何者にも縛られず、自由な孤高の時を過ごしていたかった。
だがそれが許されないということも、幼い頃から俺は十分に理解していた。
俺には剣術においての天稟があったようで、騎士団に入団する前からすでに天才剣士と評され、将来を嘱望されていた。
そのうちにカルセミアとの戦争が勃発し、戦果を挙げて俺は英雄の称号を得た。
そして騎士団長だった父が早々に引退を表明したので、俺は成人したばかりの異例の若さで公爵兼騎士団長となった。
フィンバースの英雄と呼ばれ、最高の地位と名誉を得た俺の花嫁の座をめぐって、国内外の貴族令嬢たちは熾烈な争いを繰り広げた。
中には俺を罠にはめて既成事実をつくろうとする家門の令嬢などもいて、あらゆる策謀や手練手管が繰り広げられ、もともと人が嫌いだった俺は、人間の欲望が渦巻く社交界に心底嫌気がさすようになった。
そんな俺に、父は昔から「生涯ただ一人の女性を愛せ」と説いてきた。
フレイザー家の当主は、父の言っているとおりのことを代々実践している。
開祖セドリック以来竜人族の血を引くフレイザーの男は、番を重んじる気風が強いのだ。
父ベニートも、母イーディスと結ばれ、互いを唯一の存在として愛し合い、息子の俺を育ててきた。
魂をもがれた俺のような難しい子どもを、夫婦で協力して育て上げてくれたこと、それは真に尊敬に値すると俺も思っている。
だが俺はどうやって、父にとっての母のような、たった一人の伴侶を見つければいいのだ?
山のように積まれた花嫁候補の釣書の中から、一人の女性を正しく選び取ることができるとは思えない。
第一、釣書を寄こした令嬢たちは、俺を愛しているわけではなく公爵夫人という地位が欲しいだけだ。
俺は、そんな女性と結婚して両親のような仲睦まじい夫婦になれるなどとは到底信じられなかった。
そもそも自分は人とうまくやっていけない人間だと、俺自身十分自覚している。
だから、父の言う「唯一の女性」と出会うことも期待してなどいなかった。
俺は結婚もしなくていいし、子どもを持たなくてもいい。
表に出せないフレイザー家の血を引くヨシュアを、父と母が養子にすればいい。
そして正式に俺の弟となったヨシュアが、結婚して子どもをつくり、フレイザー家をその子が継いでくれればいいではないか。
俺は騎士団長として剣の道をきわめる一方、領地の運営を円滑に進めていくことで、自分に課された高貴な者の義務は果たせると思っていた。
だがそんなある日、俺はネリーに出会った。
いったんは離れたものの、その後の彼女のことが気になって俺は貧民街へ会いに行った。
ネリーは、再会した俺が公爵で騎士団長でもあるとわかっても、冷ややかな対応しかしなかった。
数えきれないほどの貴族令嬢から寄せられる愁波に疲れ切っていた俺には、ネリーのその反応は新鮮だった。
ネリーは何も持たない貧民だが、俺に媚びへつらうこともなく、利用しようともしない。
俺は、彼女のその清廉で無欲な姿勢を尊いと思った。
以来何度か貧民街に足を運び、俺にもネリーの暮らしの様子がわかってきた。
もうすぐ16歳になるところでたった一人の家族だった姉を亡くし、今は天涯孤独の身の上だった。
娼婦だった姉のつながりで娼館に身請けされ、最初にあてがわれた客が俺だったらしい。
その時俺がネリーを抱かなかったので、ネリーは俺と別れた後、俺に娼婦をあてがった人間からの報復を恐れた娼館の主から店を追い出されていた。
そうしてわずかな蓄えも底を尽きかけていた彼女に、俺は援助を申し出たが、ネリーはそのたびにうさん臭そうな顔で断った。
「騎士さん、ここはあんたが来るようなところじゃないよ。
近所で変な噂が立って困ってるんだ。
あたしみたいな貧民がお貴族さまに関わるとろくなことがない。
あたしのことはもうほっといて」
ネリーはそんなふうに俺を拒絶するが、初めて会った時、俺は彼女のおかげで命をつなぐことができたのだ。
それに、表情のない能面のような人間たちの中で、ネリーだけは俺の目に生き生きと色づいて見えていた。
俺は何とかしてネリーをこの境遇から救い出したいと思い始めた。
そんな折、俺が貧民街の娘のもとを訪れているという噂を聞いた父に、俺は厳しく叱責された。
それを機に、俺はネリーを売春宿の巣窟である貧民街ではなく、平民の住む街に住まわせようと決心した。
ネリーが住むための手頃な家を平民街に用意して、その足で貧民街を訪ねていったところ、ネリーは路地裏で今まさに客を取ろうとしているところだった。
それを目にした俺は、行為に及ぼうとしている男を力ずくでネリーから引きはがし、強引に彼女をそこから連れ出した。
「何するんだ、騎士さんよォ!
そいつにはもう金を渡してあるんだぜ!」
客の男が背後から怒鳴りつけてきたが、俺はそいつを肩越しににらみつけて言い渡した。
「ここは公共の路地だぞ。わいせつな行為は許さん」
「はあ!? 何言ってんだよ、あんた!」
男は身づくろいをしながら怒鳴った。
「貧民街の娼婦と路地でヤって何が悪いんだよ!
みんなやってることだし、暗黙の了解だろうが!
あんた最近、ネリーに惚れて追っかけまわしてた騎士団長サマだよな!?
てめえのやってることは罪にならないのかよ!
おいネリー、金返せ!」
ネリーは俺に腕をつかまれながら男を振り返ったが、俺は構わず大股でネリーを引きずるようにしてその場を立ち去った。
大通りに出ると後ろから、
「くそっ、バカにしやがって!
ネリー、覚えてろよ!」
客の男が大声で怒鳴ってきたが、俺はそれを完全に無視し、通りがかった辻馬車を拾ってネリーを中に押し込んだ。
同乗した馬車の中で、ネリーは俺に対して怒っていた。
さっきの男の捨て台詞を聞いて、自分の身が危うくなったと恐れていたのだ。
「何てことしてくれたの!?
どうするのよ。
あたしもう帰れないじゃん…」
泣き出したネリーを平民街の家に連れてきて、馬車から降ろしてやった。
小柄なネリーの肩を抱いて玄関前の階段を上がり、扉の鍵を開けて家の中に入る。
こぢんまりとしたエントランスできょろきょろと室内を見まわしているネリーに、俺は宣言した。
「今日からここに住むといい。
これからは、お前は俺のものだ」
ネリーはそれを聞いてびっくりした顔をしたが、やがてこくりとうなずいた。
俺はすぐに使用人を手配し、ネリーを身ぎれいにさせた。
それから医者を呼んでネリーを診察させると、栄養状態はよくないが、健康で性病も持っていないと診断された。
後日、俺は王都の貧民街での売春行為の一斉摘発に踏み切った。
ネリーを脅したあの客の男は、幼い少女に売春を斡旋する組織の幹部の一人として捕まり、牢獄送りになった。
それを報告すると、ネリーは安心したようだった。




