96 二つの恐怖
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私が道場に入った時、すでに事態は始まっていた。
上半身裸になっているハチの父が、ハチに掴み掛かっていた。
ハチが抵抗する間も無く投げ飛ばされ、力任せに床に叩きつけられる。衝撃で道場の建物自体が揺れた。
玄関口で私は立ち竦み、ただ視線を注ぐしかできない。
起き上がろうとしたハチの襟首を掴むと、ハチの父は強引のその体を引っ張り上げた。あまりに軽々とハチの体が持ち上がったのは、違和感しかない。
持ち上げた次はハチの体が旋回してもう一度、床に叩きつけられる。
私の手が口元を押さえるが、短い悲鳴が漏れてしまった。
目の前の光景には稽古のような手加減はないように見えた。
事実、受け身を取りきれていないハチは床からなかなか起き上がれず、顔は苦しげに歪んでいる。
容赦ない蹴りが来るのをなんとか転がって避けたハチだが、起き上がろうとしたところへハチの父が飛びかかる。
拳がハチの肩口を打つ。ただの拳のはずが、ハチの体が大げさによろめき、完全に姿勢のバランスを失った。
追撃の拳は腕を掲げて防いだものの、ハチは尻餅をついていた。
ハチの父が動きを止めた草食動物へ襲いかかる肉食動物のように襲いかかった、。
最後まで逃れようとしたハチの努力も虚しく、組み敷かれるのは避けられなかった。
ほとんど馬乗りになって、父親が息子に執拗なほどに拳を叩き込んでいく。
それに対してハチは頭を守るので精一杯のようだった。
拳でやたらめったらに打ち据えながら、ハチの父からは怒号が飛ぶ。
「なんだこのザマは! これで魔法使いになるだと! ふざけやがって!」
鈍い音の連続を背景に罵声が響き渡る。
「この程度で何になれる! 魔法使いとやらになれば俺を倒せるとでも思ったか! お前如きに俺をどうこうできるかよ! 二度と立ち上がれなくしてやろうか! いや! ここで死んでしまえ! 自分の愚かさを理解して死ね!」
ハチは答えない、いや、答えられないのだろう。
ハチの父は一切の容赦しない。一方的な暴力を向け続ける。
肉が肉を打つ鈍い音が途絶えるほどなく続き、時折、鉢が小さく呻く。
私の足が震えていることに、今になって気づいた。
こんなのは稽古じゃない。ただハチを痛めつけているだけだ。
懲罰ですらない。
ただの暴力だった。
やめて。
自分の口から漏れた声は、弱々しく、自分の声とも思えない。
やめて! と叫んだときには、私は靴も脱がずに道場に上がり込み、ハチの父親の背中に飛び付いていた。
かなりの距離があったはずなのに、気づいた時には私はハチの父親の背中に抱きつくようにしていて、渾身の力でその動きを止めようとしていた。
「やめてください!」
叫んだ時、何かが起こった。
自分の身に起こったことは、全部が終わってからわかった。
正体不明の力が私を跳ね飛ばして、私の体は見事に宙を飛んだ。
受身を取ることを考える前に背中から床に墜落し、体は勢いよく転がるとまた背中から道場の壁に衝突した。
そういう全てを、横たわったまま動けない状態で、理解した。
くらくらする。
衝撃のせいもあるだろうけど、体が激しく不規則に動いたせいで三半規管がおかしくなっていた。
視界にあるものがグラグラと揺れ、輪郭がぐにゃぐにゃしている。
そこに身体中の痛みがいっぺんに襲いかかってきて、私は息を吐いたつもりが口から漏れたのは呻き声だった。
それでも顔を上げたのは、何のためだったか。
ハチを助けようとしたのか。
それとも、さらなる暴力に備えようとしたのか。
視界の中で、はっきりとはしないもののまだハチを組み伏せているハチの父が、私の方を軽蔑するように見ていた。
「下がっていろ。お前は関係ない」
冷ややかで、酷薄な声。
私は、目を逸らさなかった。
私が間違っていると思わなかったからだ。
でも、間違っていないとしても私は無力だった。
今もこうして視線を向けるしかできない。
「何をした」
その声は、地の底から聞こえてくるような声だった。
直後、ハチの父親が跳ねるようにして馬乗りになっていたハチから距離をとった。
それは逃れたのではなく。
ハチが父の体を力で跳ね飛ばしたのだ。
しかしそんなことは、普通の人間の体力では不可能だ。
ハチの体力が一般的なそれよりも上をいっているとしても、人間の限界は超えられない。
私は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
見えない気配が肌を撫で、チリチリと刺激していく。
これは、魔力波動の気配か。
ゆらりと立ち上がったハチが見える。
その周囲の空間の像がかすかに歪んでいる。
「満月に何をした、クソ親父」
感情のうかがえないハチの声を、ハチの父は笑い飛ばす。
「なんだ? 女のためなら必死になるか? その程度の力でいい気になるなよ!」
ハチの父はまったく動じなかったし、無警戒に突っ込んでいく。
傲慢さや慢心がさせるものではない。
それだけの力がハチの父にはある。
ハチも、動いた。
お互いに策もなく、正面から間合いを詰める。
何の欺瞞もない動作で拳を大きく引きつけて、まっすぐに繰り出した。
二人の拳が交錯し、お互いを掠める。
至近距離でもう一度、拳が交錯するがやはりどちらも相手を捉えなかった。
まるで打ち合わせていたように、二人が即座に組み合う。
と見えたはずなのに、ハチの動きはフェイントだ。
ハチの体が父の側面へ滑り込むように移動している。
ただ、ハチの父にはそれが読めていたようだった。
向き直りながら振り回した拳がハチの動きを先読みして、その移動地点を強襲する。
しかし、読み外れた。
拳の先にハチはそこにはいなかった。
端から見ている私は全てが見える位置にはいたが、あまりにも動きが早すぎてはっきりとは見えなかった。
わかったことといえば、極端な機動力を使ってハチの読みを欺いた。
父の側面へ回り込むと見せかけておいて、際どい瞬間に体を逆に振っていた。
自分に向かってくる大振りの拳を下をかいくぐった時には、体ごと拳を振り回した父の背後にハチは滑り込んでいた。
どこでそんな足捌きを学んだのか、鮮やか動きだった。
その上、ハチの父はあまりにも拳の一撃に力を込めすぎてそれに引きずられている。
好機だった。
拳が引きつけられる。
ハチの父は逆転を狙ったのだろう、体を限界まで捻るように後ろ回し蹴りを繰り出していく。
しかしどう見ても、ハチの一撃の方が早い。
それも魔力回路が機能している状態での、本気の一撃だ。
特殊な訓練を積んでいるとはいえ、そんな一撃に人間が耐えられるのか。
私の本能的な疑問は、好奇心より恐怖が勝った。
どんな力があっても、その力に呑まれてはいけない。
力もたらす結果を知りたいと欲しても、使ってはけない力はある。
ハチにも私の中にある逡巡が伝播したようだった。
ハチの動きが、半瞬ほど鈍る。
ほんの瞬きをする程度の時間に過ぎないのに、時間は時間だった。
ハチの父親の体が急旋回。
一方、ハチの姿勢は不自然になった。
攻めでもなく、防御でもない。
まずい、と私の頭の中で警報が鳴る時、ハチはなんとか防御姿勢を取ろうとして、間に合わなかった。
聞いたことのない音を立てて、ハチの体が跳ね飛ばされた。
私の方へ飛んでくるので、本能のままに伏せた。
その私の横をハチの体が突き抜けて壁に衝突したと思うと、あまりの衝撃に壁を突き破ってハチの姿は見えなくなってしまった。
埃が巻き上がっていて、息を済んだ私は咳きが止まらなくなった。
咳き込みながら、私は状況を確認した。
壁には大きな穴が空いている。その向こうの地面でハチが仰向けに倒れていた。
完全に脱力していて、動く気配がない。
「は、ハチ!」
思わず声を上げて、私は壁の穴を抜けて外へで飛び出した。
ハチに触れようとして、下手に揺するとまずいのではないか、という思考がよぎる。
しかしこういう時にするべきことが、さっぱり頭に浮かんでこない。
どうすればいい?
「別に死にはせん」
声の方を見ると、壁の穴を抜けてハチの父が出てくるところだった。膝を折るでもなく私と意識のないハチを冷酷な眼差しで見下ろして、鼻を鳴らした。
「最後の最後で躊躇うとは、愚かなことだ」
あんたが無事で済まないことを考えたんだろう、と言葉が口をついて出そうになった。
しかしそうしたところで、ハチが助かるわけではない。それに……。
ぐっと堪えて、ただ睨みつけた。
言葉を飲み込んだ理由の一つは、恐怖が私の怒りを上回ったせいだ。
こんな暴力を人間相手に振るう人間がいることが恐ろしい。
でもそれはきっと、魔法使い、行使者だって同じことだ。
そしてそういう暴力に対して、私はあまりにも無力だ。
「一応、先生でも呼んできてやるよ」
そんなことを言い残してハチの父は姿を消してしまった。その足取りは特段、急ぐようでもなかった。本当にハチが死ぬことはないと思っているらいい。
私は意識を取り戻す気配のないハチのそばに、ただ座り込んでいた。
こんな光景は、もう二度と見たくない。
自然とそう思っていた。
将来、管理者になれれば、その時は多くの行使者と接点を持つだろう。
その行使者は、もしかしたらどこかで倒れるかもしれない。
そのことに、私は耐えられるだろうか。
ハチが事故を起こした時、誰かを傷つけることの恐ろしさを実感した。
そして今、身近にいる人間が誰かに傷つけられる怖さを知った気がした。
誰かの足音がする。
でもそちらを見ることもできず、私はただハチを見ていた。
涙が滲んだけれど、流れることはなかった。
私が泣くのは、違うはずだから。
私には何か、できることがあるはずだ。
それをせずに泣くことは、きっとできない。
してはいけない。
(続く)




