95 夢
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山崎先輩の一件があった翌日、つまり実質的な合宿の最終日も普段通りに始まった。
私が起きた時にはすでにハチとハチの父は山に入っていて、朝食の席には不在だった。
ハチの父もハチも、昨日までは山崎先輩も、山に入る時はずっと朝食を食べないでいたので特に気にはならない。しかし今日は山崎先輩が朝食の席にいるで、少しいつもとは雰囲気が違う。
山崎先輩は前日の脳震盪のような症状を加味して、今日はハチたちと一緒に山に入るのはやめていた。
今日は一日、山崎先輩は静養すると聞いている。
それは幸坂先輩の診断ではなく、藤吉先生の診断だった。
「まったく、あの人も綺麗なお嬢さんになんてことをするのかしら」
まだハチの母はプリプリと怒っている。
藤吉先生が「みんな慣れていますから」と取りなすものの、うちの人が乱暴なんですよ、とハチの母は反論していた。
山崎先輩自身は、自分のことが話されているのにこれといって口を挟まず、用意された朝食を前に箸を進めている。
ハチの祖母と母は合宿の間、ずっとしっかりとした料理を用意してくれていて、品数も多ければ味も良かった。
しかも毎日、少しずつ違うものが出てくる。
今日は特にだった。少し豪勢だ。明日の朝食はお世話になるけれど、今日が合宿の最終日だから気合いが入っているのかもしれない。
朝食が終わり、ハチの祖母が食器を洗うのを私と幅沢先輩が手伝う。幸坂先輩と加賀原先輩はハチの母と掃除を手伝う。これもここでの日常の一部だ。
それぞれの仕事が終われば、洗濯を手伝ったり、庭掃除をしたり、午前中は短い時間だけとはいえ意外に忙しい。
もしかしたら山に入っているハチよりもハードかもしれない。
いや、そんなことはないか。
一区切りがつくと仲間内での議論の時間になり、そのうちに今度は昼食の準備をする時間になる。
私と幅沢先輩は台所でハチの祖母と母の指導のもと、慌ただしく動き回る。
藤吉先生が合宿の内容の何をどこまで想定したかは知らないけれど、私にとってこの合宿はいろんなことを学ぶ場になった。
魔法技専の延長にあることもあれば、料理や洗濯、掃除などのように日常で必要にあることも実際的に学べた気がする。
もちろん、この短い期間で全てが完璧に身につくことはないのだけど、知っているのと知らないのではまるで違う。
まぁ、ここで学んだ知識は学生の期間や一人暮らしをするだろう時間ではなく、もっと先に例えば家庭を持った時などに役立つような知識かも知れないから、その時にはいろいろと忘れてしまっている可能性もある。
昼食の料理がある程度進んだところで、ふとしたようにハチの母が時計を見た。
「そろそろ戻ってくる頃ね。石森さん、手は空いている?」
「あ、はい。もうハチが戻ってくる時間ですか」
「たぶんね。まぁ、勘みたいなものだけど」
実際、ハチの母が山に入った組の帰ってくる時間は毎日、ズレがある。
本当に勘なのかも知れないし、何か知る術があるのかも知れない。
そうしてハチの母と私の二人で母屋を出て、裏手にある山が見える場所に向かった。
ハチとハチの父親は大抵、そちらから降りてくるのは変わらない。たまに全く違う方から戻ってくる時もあり、そうなるとハチの母は姿に似合わない舌打ちを漏らしたりもする。
母屋の裏手から見える木立には明らかに人が通った痕跡があるのは私にも見分けがつくようになった。
草むらが踏み分けられて、少しだけ下草が寝ているのである。
「石森さん、あなた、ハチのことをどう思ってる?」
帰ってくる二人を探していたので、ちょっと私は油断していた。
その油断のせいでまったく自然な問いかけの、その内容の理解が追いついていなかった。
追いつかないまま、おうむ返しをしてしまった。
「どう思っている、ですか?」
「そう、お友達ってことでしょ? それとももっと深い仲なのかしら?」
やっと自分が何を問いかけられたか、わかった。
ハチの母もぶっ飛んでいるかもしれない。
「友達、だとは思いますけど」
そう答えると、フゥン、とハチの母は微笑んでいる。
私としても、ちょっと考えてしまった。
友達ではあるだろうけど、見方を変えれば、ある種のパートナでもある。
深い仲ではないけれど、別の意味で、それなりに信頼はし合っていると思う。
この辺りの関係性の説明は魔法技専の外部の人に理解してもらうのは難しい。
にこやかなハチの母が、真剣な調子で言った。
「うちの人に似て適当な人間だけど、あの子と仲良くしてやってね」
はい、とは答えたものの、ハチの母の真意はどうもわからなかった。
勘違いしているのか、真剣にハチを心配しているのか、どちらだろう。
私の疑問が顔に出ていたのか、彼女はちょっと小さく笑い声を漏らす。
「こんな山奥で生まれ育って、それが魔法を勉強したいと言い出すのだから、笑っちゃうでしょう? 私は笑ったわね」
どうとも答えられない私に、ハチの母は静かに告げる。
「でもまぁ、この山の中しか知らない人生なんて、それはそれで退屈でしょう。うちの人だって、若い時は日本のあちこち、そこらじゅうを旅して回っていて、ここへ帰ってくるのも稀だったからね。だからハチが外へ出て行くのも父親譲りのものなのかもねぇ」
そうですか、と私がやや答えに詰まって応じた時、草むらが揺れる音がした。
私とハチの母が視線を向けた先から、ぬっと山から大柄な男性が出てきた。
クマでも出てきたかと思ったが、違う。紛れもなくハチの父だった。
普段通りの作務衣を着ていて、足元はサンダルだった。どこかどう見ても山に分け入る服装や装備とは程遠い。
「なんだ、待っていたのか」
憮然とした声に、ハチの母が応じる。
「今日は何か獲れましたか」
うん、とハチの父が頷き返す。
「ちょうどいい鹿がいてな。燻製にでもすればいいだろう。これからハチが持ってくる」
夫婦がかなり特殊な会話をしているところへ、木立の中から遅れてハチが出てきた。肩に鹿を担いでいる。
昨日も鹿だったが、そんなに鹿を獲って大丈夫なのだろうか。そもそも許可を得ているのか? 許可が必要なはずだが……。
私とハチの視線が合って、とっさに声をかけていた。
「お帰りなさい」
対して、ハチは無言で頷くだけだった。
どうも普段と少し様子が違う。塞ぎ込んでいるようだ。
一言も口をきかないまま、ゆっくりと鹿を地面に下ろしてそっと横たえた。鹿は首がおかしな方向に折れている。あまり直視できず、そっと目を逸らしておく。
「おい、ハチ」
いきなりハチの父が声を発したので、彷徨いかけていた私の視線がハチとハチの父の二人の方に引き寄せられた。
ハチは首を回しながら「何?」と返した。
ハチもどこか不機嫌そうだったが、ハチの父は今日は機嫌が悪いようだ。
強い口調がハチにぶつけられる。
「お前、本当に軟弱になっちまったのか? その鹿を運んだ程度で何を疲れたような態度をとってやがる。魔法なんとかとやらで骨抜きにされちまったのか?」
「どこかの山暮らしの男とは違うんだよ」
これも珍しくハチが気の立った強めの声で反論した。
ハチの父が舌打ちを返す様は、やはり苛立っているようだ。
「余計なことばかり考えやがって、それで一端の使い手のつもりか? 事故だかを起こしたなどと言っていたが、さもありなんだ。お前のような半端者が魔法などと、恥を知れ」
静かな、しかし辛辣な言葉に、ハチも本格的に腹を立てたようだった。しかし怒鳴り返すわけではなく、鋭く父を睨みつけ、そっけなく応じた。
「何も知らない奴は黙ってろよ」
対するハチの父も退いたりはしない。
「知っていることはある。お前が弱いということはよく知っている」
「強い弱いで何もかもを測るなって。それはこの山だけの理屈だ」
「お前が山を降りれば強いだなんてことがあるものか」
唐突に始まった静かな口論に、私は慌てた。
慌てた私の横で、ハチの母は微笑んでいるので、私は自分が慌てているのが場違いに思えた。
これがこの親子の普通のあり方なのか?
口論は、ついてこい、とハチの父が促すところに行き着いた。
これにハチは如実に拒否の気配を漂わせた。
「殴り合いでは何もわからないって理解しろよ」
そうハチが言い返しても、父は「逃げるのか」とさらにやり返した。
露骨にハチがため息を吐く。
その態度に頭に血が上ったらしいハチの父がまくし立て始める。
「負けるのが嫌で、他人を傷つけるのが嫌で、何もできない人間に成り下がるのか? そういう敗北主義者になったってことか? そんな人間になるために山を降りたのか? お前は」
最後まで聞いもハチは答えなかった。
ただ父を睨みつけるだけだ。
父の方も息子を同じように、火花が散るような瞳で睨み据えていた。
「どうせ、合宿とやらも今日が最後だ」低い声でハチの父が言う。「最後に重要なことを教えてやるのも、父親の役目だろう。道場に行くぞ」
言葉を無視する形でハチは父を睨み続けていた。
それが根負けしたのか、父親の役目なんて果たしたこと今前に一度もないだろう、と呟くように言うと、ハチは動き出した。
道場へ行くようだ。
私は言葉にできない恐怖のようなものを感じた。
怒りに駆られた二人の間で拳がやりとりされたら、よくないことが起こりそうだ。
ハチの父は目の前でまだ微笑んでいる奥さんに「鹿を締めておいてくれ」と言い残して、道場に向かうハチを追っていった。
そうして私はハチの母とその場に残される形になった。
どうしましょうか、という意味で顔を伺うと、ハチの母は特に懸念を抱いていないようだ。
「私が鹿の面倒を見るから、石森さんは道場へ行っておいてちょうだい。何もないと思うけどね」
本当だろうか。
不可解なことを言ったハチの母は、その細身に似合わない力を発揮して鹿を背負いあげた。それにも困惑する私だった。どこからその力が出るのだろう。
それよりも道場へ行かないといけない。
ただ、このまま一人で道場へ向かうのも怖い。
しかし今行かなければ、何かを見逃すような予感がした。
私は意を決して、駆け足で道場へ向かった。
胸騒ぎがする。
それはさっきまでの父子の攻撃的なやり取りのせいかもしれなかった。
感情剥き出しの二人が、私を不安にさせる。
ハチの母のように達観することなどできないし。
何か、異変が起こるのではないかと私の足はいっそう、速くなった。
(続く)




