94 彷徨
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俺が道場に戻った時、ちょうど山崎先輩が支えられながら上体を起こすところだった。
しきりに頭を振っているが、その程度で済んでいるのは奇跡的だ。
それでも床について体を支えている腕が震えていた。今にも崩れそうなのを幸坂先輩と加賀原先輩が両側から助けている。
幸坂先輩がしきり声をかけてきたが、山崎先輩は答えようとしない。
今度は首を振るのではなく、まだ周囲をうかがっていて、何かを探しているようなそぶりを山崎先輩は続けていた。
その先輩のすぐそばにいた満月が俺に気付いて、頷いてくる。山崎先輩は無事だ、という意味だと思う。
とにかく最悪の展開は免れたようだ。
俺が細く息を吐いてから歩み寄ると、やっと山崎先輩と目があった。険しい表情だったものが一瞬で解けたかと思うと、いつになく柔らかい目つきに変わる。
俺をその変化、表面的ではなくもっと深いところで山崎先輩の何かが変わった気配に、ハッとさせられた。
足さえも止まってしまった俺に、山崎先輩から静かな声が投げかけられる。
「迷惑をかけたね、ハチ。お父さんはそこ?」
問いかけに、水をもらいに行っています、となんとか答えると、山崎先輩がちょっと困ったように笑った。
「どうも、余計な心配をかけてしまったな。無様だった。お父さんはここへ戻ってくるの?」
そう言われると、父は今日は道場へ来ないような気がしてきた。
さすがにあの人でも今、山崎先輩と顔を合わすのは気まずいのではないか。
気まずいからといって、自分が殴り倒した山崎先輩を放っておいていいものではないが、父は誰かを代わりに寄越す気もしてきた。
「どうでしょう」答えないわけにはいかないので、想像で話しておく。「あの人もだいぶ、参っているようでしたよ。だから、恥ずかしくて来ないかもしれません」
「でも、勝負は私の負けでしょ?」
潔い山崎先輩の態度に、俺は冷や汗をかきそうだった。
山崎先輩の負けは、ほとんど勝ちのようなものだったのだ。
本人の評価がどうであれ。
「足がぐらついていて倒れそうでしたから、ほとんど引き分けみたいなもんです」
俺の指摘に、それは少し嬉しいかな、と小さな声があった。
山崎先輩のその言葉は、俺には本音のように響いた。
しばらくすると、案の定というか、父ではなく母が水を持ってやってきた。それもかなり足早に、焦った様子でだ。
「あらあら、大丈夫? あの人がぶちのめしたなどというから、てっきり気を失っているものだだと思ったけど、起きていて大丈夫なの? 寝ていなくていいの?」
水を受け取った山崎先輩がはっきりとした声で「問題ありません、ご心配をおかけしました」と答えると、母も感心したようだった。
それでも水と一緒に持ってきた濡れタオルも手渡す。
「魔法技専の生徒さんっていうのは、頑丈なのねぇ。本当に大丈夫なの? 具合が悪かったら正直に言うのよ。あんなバカでかい男に殴られて、平気なはずはないんだから」
俺が笑うに笑えない一方、山崎先輩は朗らかに笑っていた。幸坂先輩たちも緊張を解いてきていた。
山崎先輩は、やはり憑き物が落ちたように見える。
グラスの中の水を飲んでから、山崎先輩が立ち上がろうとした時、もう何もないだろうという空気にヒビが入ることがあった。
山崎先輩が急にぐらりと姿勢を乱し、倒れ込みそうになったのだ。
床に倒れることは幸坂先輩と加賀原先輩が腕を伸ばして引っ張り、受け止めることで防がれた。
強張った雰囲気が広がる中心で、山崎先輩は可笑しげに小さく笑っていた。
「ここまでやられるのは、何年ぶりかな」
四年ぶりだろう、と律儀に加賀原先輩が低く答え、冗談はやめてくれよ、と幸坂先輩がぶっきらぼうに言った。
それでもまだ山崎先輩は笑っていた。
結局、山崎先輩はもう一度床に腰を下ろし、しばらく安静にしていた。
ここへ父が戻ってきたら、と思わないでもなかったが、戻ってくることはなかった。
母は山崎先輩を真剣に心配し、その原因である人物にだいぶ腹を立てていた。
もっとも、あの人が自分の奥さんの意見を気にするわけもないし、行動方針や思考形態を変えるとも思えない。
「女の子をこんなにするなんて、鬼かしらね、あの人は。本当に人でなしだわ。私が仕返ししてあげようかしら。これでも猟銃の免許を持っているのよ」
そんなことを母はまくし立てていたが、妙な雰囲気になるだけだった。
満月が俺を見ている理由はわかる。おおよそ、男が相手なら殴り倒していいのか? と思っているのだろう。
そこは俺も疑問だが、いちいち疑問を解き明かすようなことはできない。
父の謎理論を論破するのは面倒だし、どうせ父は動物的な直感のままでやりたいようにやっているし、やっていくのだ。
母の倫理でさえ、どこかおかしい気がするが、世の中、そんなものだとしておこう。それが穏便だ。誰にとっても。
夕方になる前に料理をしてくると母が去って行き、その頃には山崎先輩も具合が良くなったようだった。
全員で一度、別棟の客間へ戻ることになった。
まだ山崎先輩は幸坂先輩と加賀原先輩に挟まれて腕を抱えられていたが、その足取りに不自然さはなく滑らかそのものである。
まったく、本当に助かった。
ここで事故が起こっていたら、とんでもないことだ。
離れに戻ると、ふらりとどこからか藤吉先生がやってきた。
そう、藤吉先生は道場にはいなかったのである。いたところで父を止められたわけではないが、頼りにならない人だな、とちょっと思ってしまった。
「何? 潤ちゃん、まさかぶちのめされちゃったの?」
素朴ながら、言葉選びは明らかにある人物の影響を受けていた。
「少し休ませます。大したことはありません」
山崎先輩より先に幸坂先輩がそう言って、藤吉先生はそれで十分と判断したらしく「女性二人は料理の手伝いに行きましょうね」と言い出した。
幅沢先輩も満月も山崎先輩の様子に不安を感じたようだった。しかし藤吉先生に押し切られる形で二人は別棟から母屋へ向かうことになった。
残った藤吉先生が半袖なのに腕まくりをするようなそぶりをすると、自信満々に言った。
「今回ばかりは私が様子を見てあげましょうね、潤ちゃん」
幸坂先輩が反対するのではないか、と思ったが、幸坂先輩は素直に「よろしくお願いします」と藤吉先生に場所を譲った。
それもそうか、藤吉先生は本物の管理者であり、魔法技専の教官なのだ。
普段は忘れてしまうが、特殊な技能の持ち主なのだった。
こうして山崎先輩は藤吉先生が引き受けてくれたので、自然、俺と幸坂先輩、加賀原先輩はやることがなくなった。
「データを回収するのを忘れた」ふと加賀原先輩がそう言うと、玄関の方へ歩き出す。「すぐ戻るよ」
こうして、その場には俺と幸坂先輩だけになった。
「ハチ、その、変なことを言うようだけど」
幸坂先輩の静かな言葉に、俺は無意識に居住まいを正した。
咎められるかもしれない、と本能的に思った。
なのに、予想と違って俺に向けられる幸坂先輩の声は穏やかそのものだった。
「礼を言っておくよ」
「……何のお礼ですか?」
まさか、山崎先輩を父が殴り倒したことでもあるまい。
そう思ったが、その通りだった。
「潤も、どうやら今回の一件で目が覚めたらしい」
「目が覚めたって、あんな酷い目にあってですか?」
俺の声の方が険しくなり、顔つきも厳しくなっただろうに、幸坂先輩は嬉しさを隠せないようだった。
「潤はずっと本気になる機会がなかったんだ。もう上り詰めるところまで上り詰めたようなものだったからね。相手を再起不能にするほどの力があって、もう何もすることはないと思っていたはずだよ。でも、それは違った」
負けたことで、目が覚めたというのか。
「俺の父のようなのは異常者ですよ。さっきの勝負だって、目を覚まさせるレベルじゃなくて、ほとんど命を奪いに行っていました」
「でも、潤にとってはあれくらいの負けが必要だったと僕は思う。そもそも、負けは負けだしね。僕も久しぶりにやる気のある潤を見たよ。それだけでも、僕は嬉しい」
いつの間にか俺もおかしな世界にいる。
女子を本気でぶん殴る男がいれば、殴られて何かが変わる人がいて、親しい相手が殴り倒されたことに感謝する人がいる。
理解が難しい世界だ。
一筋縄ではいかない、という表現は、こういう場面でも適用されるのだろうか。
幸坂先輩は、俺の背中を強く叩いた。
「次の模擬戦が楽しみだよ。きみも頑張るといい」
ええ、としか答えることができなかった。それも聞こえるか聞こえないかの声で。
幸坂先輩は山崎先輩が模擬戦で戦えると思っている。確信していると言ってもいい。
では、俺は模擬戦で戦えるのだろうか。
正直、不安だった。
誰にも言っていないが、俺の中には不安があるのだと、この時になって気づいた。
魔法が暴走することがあるのではないか、と思ってしまう。
俺が制御を誤れば、事故はいつでも起こりうるのだと想像してしまう。
そして、人が死ぬかもしれないと考えてしまう。
魔法の制御力は、俺の実力と言い換えてもいい。
満月や幅沢先輩が技術的にフォローしてくれるとはいえ、戦うのは俺だし、俺だけが俺の魔法を操っているのだ。
屏風の向こうから藤吉先生の声がかかり、幸坂先輩は足早に屏風の向こうに行ってしまう。
俺は一人きりになり、じっと考えた。
しばらくの間、答えのない疑問、自己不信の中を俺の思考はぐるぐるとどこまでも巡り続けていた。
合宿の残りはいつの間にか実質的に明日だけになっている。
明後日の午前中には魔法技専へ戻るためにここを立たなくてはいけない。
昨夜、藤吉先生の都合で急遽、そういう予定になったのだが、母などは「お盆まではいればいいのに」などと名残惜しげだった。
俺もそう思わなくもないが、なんとなく居づらいのでみんなと一緒に戻るつもりだった。
明日だけで、俺は何かを見つけられるのか。
実家に戻って体が整えられたのはぼんやりと体感できる。
しかし心はまだ、彷徨っている。
むしろ、より暗い方へ、深い方へ彷徨い始めている。
思わずため息を吐いたところへ、加賀原先輩が戻ってきて「もう一人、料理の手伝いが欲しいってさ」と教えてくれた。
行きます、と俺は即答して、加賀原先輩とすれ違って客間を出た。
渡り廊下を渡るとき、外が見えた。
一面が夕日に赤く染まっている。
そんなことにさえ、俺は今まで気づけないでいた。
自分の視野の狭さに呆れ、俺は足を速めた。
(続く)




