93 敗北
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道場では、いつも通りに満月と幅沢先輩、幸坂先輩、加賀原先輩が機材の前に陣取り、空間の一角を占めていた。もう見慣れた光景だ。
俺は特にやることがないものの、しかし席に座っているのも違う気がして、少し離れて立ち尽くしていた。
「さぁて、潤ちゃん、臨死体験をする覚悟はできたかな?」
物騒なことを口走りながら、父がいつも通りにシャツを脱いで上半身裸になった。
これも毎日の見慣れた景色なので、もう誰も目を背けたり頬を赤らめたりはしない。日常と化しているが、あまり面白い日常でも愉快な日常でもない。
山崎先輩はといえば、約束通りにこの時はサングラスをかけている。
ハーフパンツとTシャツというラフで動きやすい服装で悪くはないが、俺としてはもっと防御力の高そうな服装をして欲しいところだった。
ちなみに最初から稽古の時にグローブなどつけていないが、今更、拳を痛めるも何もなかった。
父はずっと素手で通しているし、俺も長い間、その薫陶を受けたせいでグローブは無しだった。山崎先輩は山崎先輩で魔法技専でそれ相応の訓練を積んでいる。
良い子は真似をしてはいけないって奴で、ここには良い子は一人もいなかった。
バンバンと手を叩くと、ドラミングのように胸を叩いて父がほとんど怒鳴った。
「合図は無しだぞ! いつでもかかってこい!」
父がそう言った直後だった。
床が軋む音と、鈍い音がほとんど同時に聞こえた。
数メートルの距離を一瞬で渡り、父の目と鼻の先に出現した山崎先輩の拳が父の胸を打っていた。
胸の中心で、明らかに一撃での失神を狙った一発だった。
というか、殺す気だったかもしれない。
いきなり決着か? という空気が流れたが、俺だけは例外だった。
あの野蛮人がこの程度で気を失う玉ではない。
にんまりと笑みを浮かべた父の拳が予備動作無しで繰り出され、逆に山崎先輩の顔面に飛んだ。
こっちも殺す気かよ。
致命傷になりかねない拳を山崎先輩が叩き落とすものの、衝撃を殺しきれずによろめく。
その不完全な姿勢からの反撃の上段蹴りが風を巻いて頭部を狙うのを、父が腕を掲げて受ける。
もし山崎先輩と父で体重が逆なら、と俺は思わずいられない。
目の前の光景には、重量の差が露骨に出ていた。
父の拳が翻り、山崎先輩が今度はそれを払うのではなく絡め取りに行く。
足が床を離れたかと思うと、両手で父の腕を捻りつつ両足がさらに巻きつく。
ちょうど足が首に届く。
形としては腕ひしぎ十字固めのようなものだったが、それは完全に不発に終わった。
本来的には技を仕掛ける方が効率的に筋力を発揮できるはずで、極められた側は返す技がないはずだった。
しかし父は片腕で山崎先輩をぶら下げている。
腕が極まっている様子もなかった。
完全に筋力で山崎先輩は圧倒されている。
幸坂先輩たちから驚きの呻き声が上がるが、戦っている二人に驚いている暇などない。
振り回されて床に叩きつけられそうになった山崎先輩が即座に技を解き、床を転がって距離を取ろうとする。
それを間をおかずに追撃した父の拳を、さらに際どいところで山崎先輩は躱す。
その中で新たな攻め手として、横に体をかわしざまに肘打ちで父の肘を狙いにいった。
どれだけ鍛えても筋肉で覆えない関節への打撃は効くものだ。
実際、父は嫌がるように不自然に肘打ちを回避した。予想していたわけではあるまい。本能的に察知したようだ。
わずかに不規則な動きをした父に山崎先輩がつけ込んでいく。
間合いを潰して、今度は父の膝へ足を繰り出した。
さっと足を上げて蹴りを受けられて不発だったが、膝を蹴りつけた勢いを加味して、体全体を回すようにしながら床を蹴り、極端に変則的な後ろ回し蹴りが斜め上から父の頭部を狙う。
さすがに踵で後頭部を打たれるのは危険と見たか、父は腕を使ってこの蹴りを受けた。
蹴りの威力と同時に攻撃を防いだ腕を支点に、宙に浮いた形の山崎先輩が逆さの姿勢から魔法のような体の捌き方でさらに空中を移動したかと思うと、父の背後へ滑り込んでいた。
物理を無視したような運動だが、魔力回路を使ったのかどうか、見極められない。
いずれにせよ、完全に背後をとった山崎先輩の腕が父の首に回った。
今度は完全に首が締まっている。
今度は見ているものの間に驚きよりも先に戸惑いが空気に滲んだ。
それもそうだろう、山崎先輩は明らかに相手を締め落とそうとしている。山の帰り道に二人の間で交わされたやりとりを知らなければ、過剰な攻撃である。
俺だけは、そのまま、そのままと念じていた。
念じていたが、やはりこの時の山崎先輩の攻めも不発に終わった。
呼吸ができないはずの父がまったく動じず山崎先輩の腕を掴んだかと思うと、そのまま勢いをつけて前転した。
自分の首が固定されているのにそんな行動をとれば、自分自身も危険だろう。
そういうことを考える人間だと、山崎先輩も、俺でさえも失念していたようだ。
無理やりな返し技に床と父の背中で山崎先輩が挟まりそうになった。
その前に父の頭が床を打ち抜くようにも見えたが、誰にも確信は持てなかったはずだ。
明らかに山崎先輩が慌てた。
このままでは相手を締め落とす前に自分が押し潰されてしまうのは間違いない。
結局、締め落とすのは放棄して、強引に自分の腕を拘束する手を振りほどくことで間一髪、山崎先輩は圧死を免れた。
父は父で、不自然に床に衝突したわけだが、何事もなかったかのように立ち上がった。
二人が仕切り直して向かい合う。
ちょうどいい間合いに見えた。
どちらも、すぐにでも攻撃に移れそうだった。
しかし二人とも、動こうとしなかった。
不自然な静寂と静止。
二人ともがここを好機と見ていただろう。
同時に、危険とも感じたはずだ。
俺は父が攻めあぐねている光景を初めて見た。想像もしたことがなかった。
ここまでの一連の二人の動きは、ここ数日間の訓練のそれとはまったく異なっている。
まるで実戦さながら、いや、これは実戦だった。
どちらも手加減しているようには見えない。
いつものような、もうこの辺でいいだろう、というような終わり方はどちらも目指していない。
相手を叩きのめしてやる、という意思がはっきりと感じ取れた。
両者が同様の結末を目指したがために、些細な間合いが逆に二人を縫い止めていた。
勝つか負けるか、その分水嶺が今の二人の間合いなのだ。
二人だけにわかる、分かれ目が俺たちの前に表出した。
両者がここを超えれば、何かが変質する。
どちらかが勝ち、どちらかが負ける。
負けが死ではないと、向かい合っている二人は確信を持てただろうか。
はたから見ているだけ俺には、断言はできなかった。
稽古ではない何かが、ここから始まる。
両者が動いたのは、ほぼ同時だった。
それはある種の呼吸の読み合いの結果であろう。
山崎先輩が俺の知らない脚さばきで、滑るように進む。
二人の間合いのほとんどすべてがそれで消えた。
それに対して、父はただ強く、一歩を踏み込んだだけだ。
間合いはない。
片や風のように素早く。
片や巌のように重く。
二人がぶつかり合った。
結論は、呆気なく出た。
ずるりと体が傾き、倒れこんだのは山崎先輩だった。
両膝が床に落ち、脱力した体が受身も取らずに床に落ちた。
「潤!」
幸坂先輩が悲鳴を上げて椅子を蹴倒し、山崎先輩に飛びつく。
俺も動き出したが、山崎先輩にたどり着いたのは幸坂先輩が先だった。
倒れている山崎先輩は一見すると眠っているように見える。すぐそばに壊れたサングラスが転がっていた。
幸坂先輩が素早く呼吸を確認し、次に脈を確認し、頬を張りながら呼びかけている。反応はないが、特別な処置はいらないと判断したらしい。
二人の工作の瞬間、俺にははっきり見えていた。
山崎先輩の拳は父のこめかみの辺りを打っていた。
同時に山崎先輩も頭部を強打されていた。
さすがの俺も相手の頭部を強打するという自分の父親の非道に呆れ、顔を上げて睨みつけた。
睨みつけて、すぐそこに立ち尽くしている父の様子に初めて気づいた。
あれだけ常にうるさい父が黙り込んでいることにもこの時に気付いたのだから、俺も相当に動揺していたということ。
その無自覚の動揺に、さらに動揺が加わった。
父の両足が激しく震えている。今にも膝をつきそうだ。
巨漢は黙って、立ち続けることだけに全力を傾けている。
そんな父の様子を俺は見たことがなかった。
歯を食いしばっても膝が折れかけるのを足を踏み出してこらえ、そうして前屈みになった体を渾身の力で支えると、緩慢に体を起こしてついにぐっと背筋を伸ばして胸を張った。
表情には満足げな色があるが、同時に、悔しげでもある。
「やれやれ」父の声はあからさまに震えていた。「俺としたことが、危うく膝をつきそうになっちまった。こいつぁ、まだ修練が足りない証拠だな」
そんなことをいつになく真面目な声で言うと、不意に笑い出すのだから、息子である俺でもこの人の人格を疑わない方が難しい。
文句を言いたいが言えない俺は完全に無視して、自分の足元で介抱されている山崎先輩を一瞥すると「水でももらってきてやろう」と道場の玄関の方へ歩いていってしまった。
もう足取りは安定していて、ふらつきなどしていない。
その背中を思わず目で追ってしまった。
やはり、言うべきことを言わなくてはいけない。
でも、何を言うべきだろう。
山崎先輩にした仕打ちを否定するべきなのに。
何故か、先ほどの勝負に父が負けたような気がしてならない。
すみません、と俺は幸坂先輩たちに言い置いて父を追っていた。
真実を知りたかった。
先ほどの勝負の、本当の結果を。
外へですぐに、父に追いついた。道場を出るところは強がりだったのだろう、父の歩調は普段と比べると遅すぎるほど遅い。
「父さん、さっきのは……」
背中に声をかけても、振り向こうとしない。
うぅむ、と足を止めた父の背中から唸り声が返ってきた。
「危うくあんな小娘にやられるところだった」
本気で悔しそうな声だった。
「魔法なんとかと言う学校も、あながちぬるま湯ではないらしい。そこでハチよ、お前に聞いておくことがある」
父が緩慢に振り返り、俺を見る。
表情から普段の豪放磊落なものは消え、真剣そのもの、本気の疑問の顔つきで父は俺を見ていた。
「お前は学校で、何をしているんだ? どうしてその程度の使い手のままなのだ?」
どきりとした。
父は俺の顔に何を見たのか、口元を歪めて強く睨みつけてから鼻を鳴らすとそれ以上は何も言わずに、母屋の方へ歩き去って行った。
ぎこちない足取りの巨体を見送りながら、俺は自分がいる場所を思った。
俺がたっている場所は、父とはかけ離れている。
山崎先輩からも程遠い。
俺はきっと、少しも強くないし、強くなってもいない。
この半年、俺は何をしてきたのか。
何もしてこなかったのではないか。
この認めたくない事実を、俺はどうしたらいい?
父が見えなくなってから、俺は重くなる足取りを無理やりに叱咤して道場へ戻ろうとした。
しかし道場へ戻るのは恐ろしくもあった。
山崎先輩が負けた姿は、俺の敗北を暗示してもいるようだった。
目を背けたい。
何もかもが足りない俺は、これから先、誰にどうやって勝つというのだろう……。
(続く)




