92 不穏な気配
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山の奥の小川のほとりで、父がその川の水を手ですくって飲んでいる。
俺と山崎先輩は少し距離を置いてその様子を見ていた。現代ではいくら澄んでいても川の水を直接飲む人間はごく少数だ。
「ほら、ハチ、潤ちゃんも水分補給しておけ! 倒れるぞ!」
いや、と俺が短く拒否してから山崎先輩を確認した。山崎先輩は首を振りながら、俺よりは愛想よく答えた。
「お腹を壊しそうですから、遠慮します」
丁寧な辞退に、遠慮するなよ、と父は笑っている。
いやいや、誰も遠慮はしていない。勝手に解釈しないで欲しい。
父はまた水を飲み、大げさに息を吐いている。
「美味いぞ! 本当に美味いんだから、腹を壊すわけがない! こんな水程度で腹を壊すことを考えるとは潤ちゃんは繊細だな! そんなことでは立派な大人になれんぞ?」
意味不明な言動にもう慣れてしまったのか、山崎先輩はどこか優しげにも見える笑みを浮かべて対応している。
「都会の水に慣れてしまうと、どうも、野山の水を飲むのには抵抗があるんですよ」
何か日本語がいろいろおかしい気がするのは俺だけか。
そもそもこの山の中を野山などと表現する人は珍しい。いよいよ山崎先輩の言語感覚さえも、父の影響を受け始めたのかもしれない。
都会の水より美味いと思うがなあ、などと未練がましく言いながら小川から上がってきた父が濡れた手を振り回して乾かす。
そうしてから俺たちの足元を指差す。
「今日の食料を忘れるなよ!」
誰が忘れるか。
俺と山崎先輩の足元には、立派な鹿が横たわっていた。
不幸な鹿は、山の中で俺たちと遭遇し、必死に逃げようとしたが父の悪辣な手段によって命を奪われた。
可哀想だが、これも弱肉強食か。
鹿との遭遇はいつも通り山を歩き回っているうちに偶然、出くわしたのだが、父が急に「礫打ちを見せてやろう」と言い出した。
そこで父が取った手段は、礫打ちとは名ばかりの、全く別のものだった。
足元に転がっていた拳大の石を無造作に拾い上げると、強引な力任せのフォームでその石を投げつけたのである。
身の毛がよだつような音を立てて宙を飛んだ石は、逃げていた鹿に命中した。
ただの石をただ投げつけられただけでも、当たりどころによっては命に関わることもある。
それがかなりでかい石を巨体で筋肉質な人間が、本気の力で投げつけたのだからたまったものではない。
実際、腹の辺りにただ一発の石を受けた鹿は跳ね飛ばされるように倒れ、それきりもう動かなかった。
残酷すぎて、あまり思い出したくもない。
鹿はそうして俺たちの食事になる運命に転がり落ち、ここまで俺と山崎先輩が交互に背負って運んできたのだった。
やや歩いた距離が長く感じたが、順調に麓へ降りることができる位置まで下山しているのが目印で把握できた。
水分補給を終えた父が再び歩き出し、俺は山崎先輩に頷いた。俺がさっきまで鹿を背負っていたので、次は山崎先輩の番だ。
山崎先輩はもう苦労することなく、慣れた動作で鹿を肩の上に背負いあげた。かなり重いはずだが、まぁ、行使者候補生という特殊な鍛え方をしている人間なら鹿の一等くらいどうとでもなるか。
父は歩調を緩めずに進んでいってしまうので置いて行かれないように気をつけて、同時に山崎先輩の位置も頭に入れて進む。
もう何度も山の中に入っているとはいえ、山崎先輩も山の中で迷えば家に戻るのは難しいだろう。最悪、父は見失っても山崎先輩を置き去りにして見失うわけにはいかない。
しばらく歩いて、山崎先輩の息が少し乱れ始めた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
返事の声は明るい。今まで、魔法技専ではあまり聞かなかった口調、様子だった。
「あの、サングラスのことですけど」なんとなく、今なら聞けるかなと思って俺は言葉にしていた。「最近、つけていないですけど、何か意味があるんですか?」
うん? と山崎先輩は器用に首を傾げる。そのこめかみから頬へと汗が流れているのがキラキラと光って見えた。
返事は簡潔だ。
「意味はない。ここでは必要ないかな、って感じ」
「人の目がない、って意味ですか?」
「うーん、そう受け取ってもらっても構わないけど、学校ではつけたり外したりが面倒でずっとかけている感じかな」
どうやら今、山崎先輩の口は普段より軽快だ。
流れのまま俺は先生たちが話していた、怯え、不安について質問しようとした。
でもその前に、先を行く父が声をかけてきた。離れたところで足を止めて振り返っている。
「何? どうかした?」
言いながら歩み寄ると、父が腕組みして山崎先輩をジロジロと観察するように見始めた。
「なんだ、サングラスって? 何の話をしている? 潤ちゃんとサングラスにどんな関係があるのかな?」
変な父親だが、変なところを気にするものだ。
さっさと先へ行こうと思った俺だったが、父は仁王立ちで立ち塞がり、俺たちを睥睨している。
話すまで先には行かせん、と言わんばかりだ。
「このままでは帰さんぞ!」
本当に言い始めた……。
俺より少し遅れて近づいてきた山崎先輩はそれを嫌がるようでもなく、まるで弟子が師匠に取るような従順さで答えた。
「学校ではサングラスをかけているんです」
しばらく沈黙し、フゥム、と応じた後に父が歩みを再開したが、話は続行のようだ。こちらに大きすぎる背中を向けながら野太い声が響いてくる。
「何故、学校でサングラスなんかかけるんだ? 日差しでも強いのか? 山の中はいいぞ、木のおかげで日差しは常にほどほどだ!」
見当外れなことを言っている父に、文句を言おうとした俺より先に山崎先輩が息は苦しそうだが言葉を返す。
「日差しは関係ないんです。ただ、サングラスをかけているときの方が、体が動く気がするだけです」
俺は自分が聞きたかった内容に会話が進んでいることに息を詰めたが、父に俺の緊張を共有できるわけもなく、話はどこかのどかに止まることはない。
「潤ちゃんはサングラスをかけている方が、実力が出るってことか?」
「実力って表現が正しいかは微妙ですけれど」
「表現なんてどうでもいい。体が動くというのは力が出せる、ってことだろう? サングラスをかければ力が出るのは本当のことか?」
ええ、まあ。
そんな風に山崎先輩が答えると、父親が歩きながら大笑いし始めた。
「ガッハッハ! こいつは傑作だ! 俺を相手に手を抜く奴がいるとは思わなかった!」
そういうわけでは、と即座に山崎先輩が否定しようとした。しかし、それは木々を震わすような大音声に完全にかき消された。
父は例の如く聞く耳を持たず、自分のことしか考えていなかった。
「よし! よぉし! 帰ったらサングラスをつけて俺とやろう! 俺も本気を出してやる! どうせ何日かで合宿とやらももう終わりだろう? 最後に実力を測るのも悪いことではあるまい? 違うか? 違わないよな!」
俺は不安に駆られて山崎先輩を振り返った。
これまで、父の異常さは知りすぎるほどに知っていながら、その父なら山崎先輩の訓練の相手としてちょうどいいような気がしていた。
山崎先輩が本気を出しても父は死にはしないし、父がそれなりに力を出しても山崎先輩なら耐えられると見ていたのだ。
だが、さすがに父がバカみたいな力を全開にして、それで山崎先輩が怪我でもしたら俺の立つ瀬がない。
俺は山崎先輩を潰すために父をけしかけているわけではない。
ここは無理やりに引き止めて、拒絶させるべきだ。
山崎先輩に任せてはおけない。
言葉は口にせず、俺の視線だけで山崎先輩に断るように伝えようとした。
だが、先輩はちょっと目を細めた。
その顔つきは、笑った、ようだった。
「では、よろしくお願いします。未熟者ですから、手加減してください」
すらすらっと山崎先輩が受け入れ、控えめなお願いまでしてしまった時に、俺は思わず額に手をやっていた。
言葉にするべきだった。
今からでもなんとかなる、と思い直した俺だったがやはり出遅れてしまったのは、二人の会話の呼吸を読めていなかったせいか。
父が山崎先輩の申し出に、即座に自分の主張を上積みしていた。
「手加減しろなどと、未熟者か! 潤ちゃんはそんな軟弱者ではあるまい! 本当の未熟者は今頃、山の中でのたれ死んでいるものだからな! そうでなければ俺に叩きのめされて起き上がれんか、そのどちらかだ! 楽しみになってきたぞ、さっさと山を降りるとしよう!」
勝手なことを言って父が歩調を早めて、どんどんと先へ行っていまう山を下りていく。
これは油断すると置き去りにされる。
俺は咄嗟に山崎先輩に視線で、本当に大丈夫ですか? と確認してみたが、はっきりと頷かれた。
本気で殴り合いをしてもいいなどと父の体格や言動を前にして言える女性は、どこを探してもそうそういない。
俺の記憶の彼方で、どこかから稽古にやってきた女子プロレスラーが初日で泣き崩れた光景がちらついた。
さすがに山崎先輩が泣くことはないとしても危険なことには危険だ。
ただ、本気になった山崎先輩が逆に父を殴り倒すのではないか、というイメージも湧いた。
湧いたが、どちらが現実になるか、どちらにも確信が持てなかった。
そもそも父がどんな風に倒れるのか、はっきりしない。
幻想として見えるのは、拳が強烈に父の顔面を捉えるところまで。
その先は、現実になってみないとわからない。
楽しみなような、不安なような。
誰も怪我をしませんように、と思っているうちに父親の背中が木立の奥に消えそうになっている。
汗だくの山崎先輩から鹿を運ぶ役目を交代して、あとはほとんど俺が見当をつけた方向へ進んでいった。
やや不安だったが、目印を見つけていたおかげで木立を抜けて傷みまくった舗装の道路に降りることができた。これで安全に帰れる。
家に帰ると、母屋の玄関の前で父が待っていた。
「遅いと思ったが、どこにしけ込んでいたんだ?」
最悪な冗談だった。
俺は無言で鹿を地面に投げ出すと、父親がその足を掴んで簡単に引っ張り上げた。馬鹿力の持ち主だと証明するのに十分な動作と言えた。証明する必要はないんだが。
「これから鹿をシメてくるから、昼飯ができるまで休んでいるといい。昼飯の後は道場だからな! 潤ちゃん、失神するくらいは覚悟しろよ!」
心底から楽しそうな父の言葉に山崎先輩は強気に答えた。
「お父さんこそ、失神しても私を恨まないでくださいね?」
最高の冗談を聞いたかのように背を逸らした父から、ビリビリと体が震えるほどの豪快な笑いが響き渡る。
「面白いことを言う! こいつは楽しみになってきたぞ! じゃあ、本気でやってやろう! 失神したところで、何も恥ずかしくはないからな! 俺だって二十年前は何度も気を失ったものだ。懐かしいなぁ。相手が誰か、知りたいかな?」
対する山崎先輩の口から挑発が飛び出すのも、やや俺の想定を超えていた。
「私がそのうちの一人になったら、是非、教えて下さい」
ニタニタと笑みをこぼした父が、そういう強気はいいぞ、実にいい、などと言いながら鹿を担ぎ直して母屋の裏手へ歩き去って行った。
俺は普段以上の疲労に襲われたが、疲れている場合ではない。
すぐ隣で、山崎先輩もすでに燃え盛る猛火を連想させる激しい闘争心を漂わせている。
本当に怪我だけはしないでくれよ、誰も。
(続く)




