97 叱咤
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何か悪い夢を見ていた気がする。
気づくと俺は目が覚めていて、天井を見ていた。
見慣れた天井ではない。
ここは、どこだ?
俺はいつ寝たんだろう? 布団に入った記憶がない。
最後の記憶はいつだろう。
ぼんやりと考えているがどうにも思考の回りが悪い。何かが詰まってなかなか先に進まない感じだった。
最後の記憶は道場だとわかってきた。
父が満月を跳ね飛ばした。
それで俺は腹を立てて、本気で父を殴り倒そうとした。
しかし、回し蹴りを食らって……、それでどうなった?
そこで記憶はふっつりと途切れて、急に今に繋がっている。
ここがどこかは思い出せた。別棟にある客間だ。天井も見覚えがあった。
どういうわけか、記憶がバラバラに砕けてしまったようだった。それが今、少しずつ元に戻りつつある。
首をひねって左右を見ると畳敷きの広い部屋で、やはり客間だ。大きな屏風も視界に入った。
少なくとも、俺はまだ生きている。
ふぅっと息を吐いた途端に胸に不自然な痛みが走り、顔をしかめてしまった。
そこは、父親の後ろ回し蹴りが直撃したところだが、痛みの記憶はない。蹴りを受けた瞬間に意識が飛んだからかもしれない。
いずれにせよ、俺は負けた、ということ。
勝てるはずだった。
ほとんど勝っていた。
最後の一撃を当てることができれば勝ちだった。
あの拳は、間違いなく当たった。
俺が躊躇いさえしなければ。
躊躇わせたのはなんだったのか。判然としないが、俺の動きを鈍らせたのはある種の恐怖かもしれない。
魔法技専の模擬戦での事故が、今もまだ俺を縛っている。
ただ、その恐怖を忘れてはいけないと何かが俺にしきりに訴えている。
他人を何も考えずに傷つけることができる人間は、きっと間違っている。
父のような異常な価値観はこの山奥の特殊な環境や特殊な人々の間ではでは許されても、世間一般というか、まっとうな社会では許されない。
攻撃というものは、決して安全を意味しない。
傷つけずに済ますことができれば、それが一番だ。
そんな理屈は理想だろうか。空想だろうか。
ありえないとしても、その一点は譲ってはいけないのではないか。
もっとも、俺のような半端者が声高に唱えても、それは口先だけの空論だと嘲笑われるだ。
いつまで寝ていても仕方がないと起き上がろうとしたが、全身が激しく痛んで、容易ではない。
苦労してうつ伏せになってから両手を突っ張り、上体を起こしていく。
そうしてやっと外が明るいのに意識が向いた。
いったい今、何時だ?
道場で気を失ったのは昼間だった。とても数時間だけ寝ていたという感覚ではない。しかし夜ではないということは、どういうことだ?
どれくらい気を失っていたのか、想像もつかなかった。
やっと座り込む姿勢になった時、人の気配がしてそちらに顔を向けると、母が立っていた。
しかしかなり怒っていると気配でわかる。長い時間を一緒に過ごしてきたのだ、会話なしでもそれくらいはわかる。
なんで怒っているのかはわからないが。
「あんた、そんな軟弱なことでどうするの」
いつになく冷ややかな口調でそう言って母が客間に入ってくる。その足取りにも怒りが見て取れた。相当にご立腹だ。
母の服装が最後に見た時と違っている。着替えたのか? 何故?
俺のすぐそばに来て、腕を掴んで無理やり引っ張りあげながら母が叱りつけてくる。
「ほら、さっさと起きなさい。それとも学校へ戻らないつもりなの?」
学校へ戻らない?
うまく立ち上がれずに布団の上にゆるくあぐらを組んで坐り直す俺に、母は責めるような目つきで見下ろしてくる。
「ずっと意識を取り戻さないでみんなを心配させて、私は恥ずかしさでみなさんに顔向けできませんよ。あの人くらい頑丈になれとは言いませんけどね、その程度で一端の人間のつもりですか?」
母の言葉には色々と言いたいこともあるが、巨漢の本気の回し蹴りを喰らって気を失っていた息子を指弾する親がいるか?
いや、まあ、そこは譲りたくないが百歩譲って。
ずっと意識を取り戻さない、とはどういう意味だろう。
「今」声を出すだけで胸が痛む。肋をやられている気がする。「何時?」
母の目つきが剣呑になる。
「何を言っているの? 九時過ぎですよ」
九時?
外を見るが、明るい。
九時は九時でも夜の九時と言っているわけではない。
なら、朝の九時か。
記憶を失った時、たぶん十二時くらいだったのではないか。
それが今は九時?
俺は、二十一時間も意識を失っていたということになるが……。
信じがたい。
騙されているのだろうか。いや、騙す理由がないか。
俺がやっと状況を飲み込みつつある一方、母は勝手に話を進めている。
「みなさん、とっくに部屋も片付けてくれたし、色々な機械も車に積み込んで忙しそうにしていたのに、まったく、あなたはただ寝ているばかりで、恥ずかしいなんと言葉じゃ足りないくらい恥ずかしいわ」
……怪我人にそういうことを言うかな。
二十一時間も意識を失っていたというのは、かなり重大な事態なのでは?
俺が幸運だったのは満月はともかく、優れた管理者候補生である幸坂先輩や、一級の管理者でもある藤吉先生がこの場にいたことだろう。
医者がいなければ死んでもおかしくなかった気がしてきた。
医者がいてもダメだったかもしれない。
再び母が無理やりに俺の腕を引っ張り始めた。
「ほら、ハチ、さっさと立ちなさい。布団は私が片付けますから。着替えるなら早くしなさい。その格好で帰るの?」
言われてみて自分の服装を確かめた。
俺は大きなサイズのTシャツ一枚しか着ていない。
誰がどうやって着替えさせたかを考えて、顔を覆いたくなった。
正当だろう恥ずかしさに裾を抑えつつ立ち上がろうとしても、ただそれだけで身体中が痛む。声が漏れそうになるのを歯を食いしばって堪えても、今度は呼吸が詰まる。
渾身の力で立ち上がり、なんとか歩いて俺は別棟を出た。
建物の外から、藤吉先生の声が微かに聞こえてきた。バンに荷物を積み込む指示をしているのだろう。
可能な限り気配を消してこそこそと母屋に移動し、自分の部屋に直行して苦労して着替えた。
服を脱いだ時、胸にどす黒い痣ができているのを発見して、ちょっと血の気が引いた。
着替えを済ませてやたら重い自分の荷物をまとめて表へ出ようとしたが、荷物が重すぎる。
同じことを経験したことがある、と荷物を見ながら考えた。
昔のことではない。比較的、最近のことではないか。
体験したことのある感覚なのに、いつのことか思い出せない。いつだったか……。
答えがなかなか出ないので諦めて、荷物を背負って足元に注意してなんとか階段を降りていく。足に上手く力が入らなくて覚束ないし、荷物は重いし、踏み外しそうだった。
普段の何倍もの時間をかけて階段を降り、そこから表へ向かう。
玄関から外へ出るとまずバンが見え、そこに既にみんなが揃っていた。
真っ先に俺に気付いたのは山崎先輩で軽くこちらに手を振る。それでみんなが気づき、満月だけが俺に駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
顔を覗き込まれながら問いかけられる。
「いや」ここは正直に答えよう。「今にも死にそうな気がする」
満月の顔が曇る。励ますようなことを満月が言い出した。
「幸坂先輩と藤吉先生がちゃんと処置したから大丈夫だと思う。だけど一応、先生に状態を話しておいて。私じゃ上手くできそうもないし」
処置という言葉が何を示すのか、はっきりとしない。
あまり聞きたい気持ちにはなれなかった。幸坂先輩はまともでも、藤吉先生を心から信頼することは難しい。
何か、デタラメなことをされたのではないか。考えすぎか……。
荷物持つね、と満月は素早く俺の荷物を受け取り、バンの方へ行ってしまう。俺が苦労して運んだ荷物を満月は軽々と運んでいったから、荷物はやはり重くはないのだ。満月が急に怪力になるということはないし。
やはり何か、俺は体の具合がおかしい。胸を蹴りつけられたことによる症状とも思えない。
「ハチ、ちょっと!」
母屋の方から声がした。
振り返ると母が手招きしている。こちらへ来いということだ。
重い体を引きずってそちらへ行くと、包みが幾つも用意されていた。重箱が入っているのは一目瞭然だ。
「今日のお昼ご飯を作ったから、持って行って。重箱は郵送で送ってちょうだいね」
ああ、とか、うん、とか、そんな言葉がぜんぶ混ざった変な音で返事をして包みを手に取ろうとすると、母が声をひそめて言った。
「お父さんは見送りには来ないからね。あなたの不甲斐なさに、それはもう、激怒しているから」
俺を半殺しにして、それでも腹を立てるとは、やはり特殊な価値観だ。
「普通、こういう時って心配するものじゃないのかな、自分の息子が一時的に意識不明になったわけし、そうしたのは自分なんだから」
「そういう人じゃないのは知っているでしょう? 次にここに来た時は期待に応えてあげなさいね。まぁ、その頃には昨日のことなんて忘れているでしょうけど」
さすがに夫と妻という関係だけあって価値観が近い。ついでに異常者である旦那のことをよく理解している。その認識に関しては俺も同感だ。
「さ、早く包みを持って行って。私も手伝うから」
俺は頷いて、両手に包みを持った。料理の入っている重箱が、まるで大きなダンベルのように重い。
「あの、母さん」
今、言っておくべきことがある。言わなくちゃいけないことだ。
「迷惑をかけてごめん。父さんにも謝っておいて」
母は、あの父の妻らしい応じ方をした。
「迷惑をかけられたとは思ってないし、お父さんに謝るなら直接、謝りなさい」
そこはよくある創作のような反応をしてくれればいいのに。
しかし冷静に考えれば、ここでお涙頂戴なような展開を求めるのはちょっと夢見すぎか。内心で反省した俺だった。
気を取り直して、次は年末には戻れるかも、と付け加えて言っておいたが、母は素っ気ない。
「あなたは勉強を頑張りなさい」
優しさが絶滅している気がするが、これも優しさの一つとしておこう。
俺は重箱の入った包みを提げて、よたよたとみんながいるバンの方へ歩き出した。
(続く)




