89 超実戦的
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翌朝、まだ日も上りきらないうちに俺は大声で起こされた。
「おーい! ハチ! 降りてこい! 行くぞ!」
条件反射で寝台の上で跳ね起きた。
瞬間、自分がどこにいるか混乱した。魔法技専かと思ったが、光景が違う。ついでに父親の声がする。
ここは実家だ。合宿で戻ったんだった。
クソッ!
意味もなく毒づいて、急いで着替えて外へ飛び出した。
そこにはすでに父が作務衣のようなものを着て待ち構えており、隣にはまだ眠そうな顔の山崎先輩の姿があった。今日はサングラスをかけていないので、俺を見据える眼差しがはっきり見える。
冷ややかというか、絶対零度だ。早朝に起こされ、俺が遅刻して不機嫌なのだ。
「おはよう」
山崎先輩が苛立ちそのものの挨拶をしてくるのに対し、俺は引きつった声で「おはようございます」と答えるしかできない。
これ以上、山崎先輩の機嫌を損ねたくないし、すぐそこに父がいる。
父の前で下手なことを口走ると、報復があるのは確実だ。報復とは、拳での報復である。
「よし、では二人とも、行くとしよう!」
ガッハッハと笑った父が歩き出す。どうやら俺の遅刻は見逃してもらえたらしい。つまり、父は上機嫌だ。山崎先輩がいるからかもしれない。
父に山崎先輩がついていくのを俺も追い、俺はそれに並んだ。
「よく寝れましたか? 肩はどうですか?」
「眠れたし、肩ももう大丈夫。でも今日はこれからどこへ行くわけ」
「見ての通り、山です」
俺の言葉に、山崎先輩が首をひねる。
「すでに山の中みたいな場所にいるけど」
「なら、これから向かうところは本当の山です」
わからないなぁ、と山崎先輩が言っているその眼の前で、俺の言葉の意味を示す光景が展開した。
道も何もないところへ父が分け入った。
藪に突っ込んだのである。
さすがに山崎先輩が動きを止め、父の姿が見えなくなった藪を見てから、確認するように俺を見る。
本当についていけばいいのか、という顔をしているが、俺が頷くともう一度、先輩は父が分け入った藪をしげしげと見た。
それは、一般人は抵抗があるだろう。
「早く来いよ!」
藪の奥から大声がする。行きましょう、と俺が藪に飛び込むと、山崎先輩も少し遅れてついてきた。
その表情は、理解できない、と言いたげだ。
俺だってなんで無理やり藪を突っ切るかは理解できていない。
「ここって道?」
やっと俺の隣に戻ってきた山崎先輩が真剣な口調で確認する。
答えはわかりきっている。
「道に見えないことでわかるように、道ではありません」
どんどんと先へ進む父の背中が遠ざかってしまうので、俺と山崎先輩は駆け足で追っていくが、地面は均されていないし、石もごろごろ転がっている。さらに樹木の根がうねり、降り積もった落ち葉が枯れてできた腐葉土が足をとる。
悪路という言葉がよく似合う。
それでも俺はこんな地面に慣れているし、山崎先輩も格闘技経験者らしい足腰の良さで父についていけている。一般人なら置いていかれる未来しかない。
「本当に、どこへ向かっているの? この先に何かあるわけ?」
ありませんよ、と答えた俺を見る山崎先輩の顔にはどこか、本当のことを言え、という気配がある。
その表情を前にすると申し訳なさを感じるが、事実なのだ。
「本当に目的地もないですし、この先には何もありません」
「何もない? どういうこと? 何かの言葉遊び? 親子でふざけているってこと?」
「言葉のままです。この先には本当に特別なものは何もないんです。父がやっているのh、ただ山の中を徘徊するだけなんですよ。時間は、きっと今日は半日くらいでしょう」
山崎先輩の顔によぎったのは、失望だろうか。
きっともっと、暴力的な展開を狙っていたのではないか。
少なくとも先輩は山の中を半日も歩き回ることに意義を見出していない。
「半日? それで何になるわけ?」
俺の予想通りのことを先輩は口にした。今にも帰ろうとしそうだが、俺はちょっと補足しておいた。
「足腰は鍛えられますし、体力はつきますよね。ずっとこういうことを続けていると、大抵のことは、楽にできます。あとは、うーん、あまり言いたくないんですが、イレギュラーな事態はあるかもしれません」
「イレギュラーな事態? それは何? 是非とも聞きたい」
俺はさすがに言葉に迷った。
どう表現するべきか。
「命の危険がある、というか……。別の言い方をすれば、超実戦的な展開が起こる可能性があります」
山崎先輩が即座に答えなかったのは、俺が言った「超実戦的」という表現を解釈できなかったからだと思われる。
そのまま返事はなく、山崎先輩は黙って歩を進めていく。
質問を止めたのは、この山歩きの先に何かが起こりうることがわかっただろうからか。
俺としても、この先にあるかもしれない事態をあまり言葉では表現したくなかった。
非常識だからだ。
俺たちが黙って進む先を父はどんどん歩いて行き、山の奥へ奥へと入っていく。
記憶をたどって自分が今、どの辺りにいるかを把握しようとした。山の中の景色はどこも同じように見えて、目印はある。
複数の目印を組み合わせることで、位置関係はだいたい把握できる。
ただ、記憶が薄れているところもあり、苦労した。
回数がわからないほど藪を突き抜け、膝くらいの高さの下草を踏み分け、張り出した枝を無理矢理に払いのけ、とにかく進む。
さすがに俺と山崎先輩が汗まみれになった頃、ふと少し広い空間に出た。
父が足を止めたので、俺より少し遅れていた山崎先輩がホッとしているのが気配でわかる。
俺は周りを見回して、何か重要なことが忘れている気がした。
目印を失念する以上に、重大なことを忘れているような……。
ここには来たことがある。それは思い出せた。
しかし、何でここに来たんだったか。
「父さん」思わず声をかける。「嫌な予感がするけど、理由が思い当たらない」
父は、さらに不吉なことに嬉しそうに大笑いした。
「よくもまぁ、ここがどこだか忘れられるものだ!」
「いや、半年も離れていたから、記憶だって薄れるよ」
「記憶が薄れる? 腑抜けたことを!」
日常で、腑抜けたという表現はなかなか聞かない。
俺が反論しようとした時、どこからか唸り声が聞こえた。
父でもなければ、山崎先輩でもない。当然、俺でもない。
それ以前に、人間の唸り声ではない。
三人が声がした方を見て、俺はやっと自分の予感の正体、失念していたことに気づいた。
「さあ、潤ちゃん! 戦ってみろ!」
そう父に声をかけられた山崎先輩は、しかし俺や父を見ている余裕はなかっただろう。
俺たちの前に、一頭のクマが現れていた。
びっくりするほど大きい。どう見ても体調が二メートルはある。
山崎先輩でも、さすがにクマに向かっていけとけしかけらたのは初めてだっただろう。
「く、クマですよね?」
動転の極みだったのだろう山崎先輩は当たり前のことを言った。
誰がどう見たってクマはクマだ。
父が、そうだ、と大声で肯定した。
「潤ちゃんに何かあれば助けてやる! 殴り倒して、蹴り倒せ!」
何か違う応援をする父と一緒に俺はクマから間合いを取った。
クマには道理が通じないので、安全を確保する必要がある。
ただ、一般的にはクマと遭遇すれば距離を取る以前に、後ずさるかして逃げるべきだろうが。
山崎先輩も一緒に下がろうとするそぶりを見せたが、下がる前に俺の顔を見て、逃げちゃダメ? という顔をした。
俺は心を鬼にして、ダメです、と首を振った。
それで山崎先輩も気を取り直したようだった。野生のクマを前にして気を取り直して冷静になれる人間はそうそういない。
人間の精神力ではない気もしたが、そこはあまり深掘りしないでおこう。
この後は展開展開は父が想定した通りになった。
山崎先輩はクマに向かって行き、自分より上背もあれば体重も倍以上はあっただろうクマとほとんど取っ組み合いを始めた。
クマを腕力でねじ伏せて投げ倒したり、殴りつけたり蹴りつけたり、大暴れした。
初めてにしてはよくやる、などと父は喜色満面に評価していたけど、この世界のどこに何度もクマと素手でやりあう人間がいるのか、理解に苦しむ。
クマは容赦ないので爪や牙が山崎先輩を掠めたりした。着ていた運動着はボロボロになり、ところどころ、血が滲んでいた。
最終的には、山崎先輩の拳がクマの頭を渾身の拳で打ち抜いて、結果、クマの方から逃げ出していった。
決着がついた時の山崎先輩は肩を激しく上下させて荒い息をしていたし、今にも座り込みそうなほど足元がふらついていた。
「いいぞ、潤ちゃん! よくやった! これくらいやってもらわなくてはな!」
一人で大笑いしている父のありとあらゆる価値観にうんざりしつつ、俺は山崎先輩に近づいて声をかけようとした。
したが、山崎先輩が純度の高い殺気のこもった目で俺を見てきたので一瞬、殺されるかと思った。
気を取り直して近づくと、山崎先輩はまだ整わない息のまま喘ぐように言う。
「もしかして、あなたのお父さんは私を殺すつもりだった? クマに私を食わせようとしたの?」
「い、いえ……」常識的見解を否定するのは難しい。「俺もここにいたわけですし、父さんもいたんですか、山崎先輩がクマに食べられそうになったら助けに入ったかと……」
そう弁明する俺に、ずっと見てただけだっただろう、と無言の瞳が告げている。
まぁ、確かに見ているだけだったか。
俺が過去にクマとやりあった時、父はいつも見ていた。だから、それが正しいと思っていたのだが、実は間違いだったか。
俺の人間性も実はどうかしているのかもしれない。
「さあ、次へ行こう、潤ちゃん!」
父がそう促すのに、さすがの山崎先輩も悲鳴じみた声をあげた。
「ま、まだクマがいるのですかっ?」
「クマもいれば、鹿もいる。昨日のイノシシもこの辺りの山で獲ったんだ!」
もっと驚くかと思ったが、山崎先輩は何も言わずにじっと父を見て、何かに納得したように頷いていた。
そうか、昨日の昼前に父がイノシシを背負ってやってきたところを見ていたか。
直前の自分が置かれた状況とあの場面を勘案するは、何かを察したところがあっても不思議ではない。
「それとも」父が山崎先輩に笑いかける。「潤ちゃんは実はクマの肉が食べたいのかな? クマの肉は美味いが、中でも右手の肉が美味いという噂がある。これからクマを探して、倒して、試してみようか?」
山崎先輩はさすがにクマを殺すのに気が引けたのか、それとも死の危険を回避するためか、首を横に振った。
それが当たり前の反応だ。自覚はなかったが、父といると何が当たり前で、何がおかしいのか、途端に分からなくなる。
それから半日、俺たち三人は山の中を歩き回り、途中で鹿を追いかけて走らされたり、イノシシとぶつかり合うように指示されたりした。
山中で鹿に追いつける訳もなく、イノシシとぶつかり合うなど不可能ごとだ。
しかし、やらされる。けしかけられる。
逃げることは許されない。
そのうちに父が「帰るぞぅ!」と宣言して山を降り始めたが、どこをどう歩いたのか、母屋が見えてきた時になって意識が復活し、同時に死ぬほど疲れている自分に気づいた。
隣をいく山崎先輩も似たような有様なのに、父だけが余裕でピンピンしていた。
ついでに作務衣には破れもほつれもなければ、汚れらしい汚れすらない。
母屋の玄関を開けながら、父が元気すぎる声で言う。
「さぁて、すぐに昼飯だぞ! 腹一杯食べて、元気をつけよう!」
笑いながら父は家に上がり込むが、山崎先輩と俺は着替えも必要だ。
「シャワーを浴びたいんだけど」
口調にも力のない山崎先輩に俺は母屋の風呂場の場所を教えた。
無言で頷いた山崎先輩は一度、着替えを取りに行くようで客間、別棟へ去っていった。俺も体が汚れているが、山崎先輩の後でいいだろう。しばらくは待機だ。
気を利かせて、山崎先輩の全身の傷を治療してもらえるように幸坂先輩に伝えたほうがいいだろうか。いや、幸坂先輩や満月、藤吉先生も別棟にいるはずだから、自然と山崎先輩と顔をあわせるか。
自分で説明しないって、楽だなぁ。
山崎先輩が風呂場に向かうのが見えたが、まだ時間がかかりそうなので俺は一度、自分の部屋に戻って着替えた。
台所で料理の最中なのだろう、何かの肉が焼かれる匂いがする。
少なくともクマではないのは匂いでわかった。昨日のイノシシの肉の残りだろうか。イノシシ一頭あれば、それなりの量の肉になる。今ここには十人なりがいるが、十分に賄える量だ。
しかし、あまり食べ過ぎないほうがいいだろう。
午後には道場で稽古という名の殴り合いがある。下手に食べ過ぎたところで腹に一発を食らうと、大変なことになる。
イノシシ肉をたらふく食って、あとは気が済むまで横になって眠れたらいいのに。
なんでこうなってしまうのか。
全部、一人の異常者のせいだ。
普通、実家に戻ればもう少しゆっくりしたりできるものではないのか。
そういう当たり前は、ここでは望むべくもないか。
俺は意味もなく首を振って部屋を出た。
(続く)




