88 宣言
●
久々に父親と拳を交えたが、やっぱり死ぬかと思った。
過去にも何度もそう思ったはずなのに、何度も父親と対峙してしまう自分が愚かしい。
今までに何度もあった死にそうな場面と今日はどこまでも相似だ。
俺も変わらなければ、父も変わらない。
父親の暴力的な教育というか、暴力による教育方針はまったく変化していなかった。
それもそうか、変える理由がないし。
一時間ほど本気で殴り合い、俺だけが参ったところで父は攻撃をやめた。やめたが、俺が倒れたまま動けなくなるほど続けるのは常軌を逸している。
「お前、なんか大人しくなってないか?」
父が首を傾げているが、気色悪いだけだ。
「そっちこそ、そろそろ分別のある大人になってくれ……」
バカめ、と父親が吐き捨てて皮肉げに笑うのは予定通りだが、予定通りでも嬉しい展開ではない。
「分別などを身につけたら弱くなるだろう。分別など、捨ててしまえ」
そう言うと思ったよ。
そこへ人の気配がして、視線を送ると山崎先輩と幸坂先輩だった。どうやら肩の脱臼は治ったらしいが、安静にした方がいいのではないか。
山崎先輩はまだ顔色があまり良くない。その隣で幸坂先輩が青い顔をしているのは俺がまだ倒れているのと、父が半裸なせいだろう。ショッキングな光景のはずだ。
気を取り直したらしく、ちょっとちょっとと幸坂先輩が手招きする。
俺はのろのろと起き上がり、そちらへ歩み寄った。
そんな俺を父は何も気にしていないように仁王立ちしている眺めている。
ただ、油断はならない。過剰な自信のせいで周囲の全てが気にならない超人的な精神の持ち主で、突拍子もないことをすぐに言いだすからだ。
「腕は治りましたか?」
こちらから問いかけると、幸坂先輩が確かに頷いた。
「肩は嵌めておいたけど、僕は休んだ方がいいと思う。でも、潤が言うことを聞かなくて」
俺も休むべきだと思います、と言おうとしたけれど、それよりも山崎先輩の発言の方が早かった。俺と幸坂先輩のやりとりに割って入る。
「私の体のことは私が判断する。ハチ、お父さんに稽古をつけてもらいたいんだけど」
「正気ですか?」
俺が咄嗟に確認すると、山崎先輩は平然と頷く。
そして好戦的な笑みを見せた。八重歯が覗いて、光ったようにも見えた。
「あちらはかなりの使い手のようだし、魔法技専であれだけやる人はいないでしょう。ちょうどいい相手だわ」
「ちょうどいいって……、しかし、ですね……」
無理と分かっていながら、俺が一応、忠告した。
「あの人は、加減ってものを少しも知らないし、そもそも格闘技になんて通じちゃいませんよ。できるのはただの殴り合いです。構えらしい構えもないし、工夫らしい工夫もない。ただ相手を殴り倒すのが楽しいんです。異常者です。それでもいいんですか?」
ふぅん、と山崎先輩はどこか冷ややかな声を出す。
「それで結構」
普段は見ることのない山崎先輩の瞳がギラギラと光り出すのを見て、俺は自分の失敗を悟った。
説得するどころか、焚き付けてしまったらしい。
ポン、と山崎先輩は俺の肩を叩いて、静かな口調で、しかし断固とした意志を見せて宣言した。
「是非とも殴り合いたいね。私はあの人を絶対に殴り倒す」
……山崎先輩の変なスイッチが入ってしまったようだ。
「僕は反対だけどね」幸坂先輩が諦めたようで笑うしかないという顔で言った。「こうなった潤は誰の意見も聞かない。というわけで、よろしく頼むよ、ハチ」
「よろしくって、なんですか?」
思わぬ言葉に幸坂先輩も俺の肩を叩いてきた。
「危険なことがないように、お父さんに話しておいてくれ。まぁ、僕や藤吉先生がいるから大概の怪我はなんとかなるけど、人間、命は一つだ」
……いろんな意味で解釈が難しかった。
自分の父親だが、危険なことをするなと言って聞く相手ではない。
そして、幸坂先輩は怪我をするのを想定している。
想定内の怪我で収まる確信が俺にはどうしても持てなかった。
命の保証さえ難しいのだ。
「聞こえているぞ、潤ちゃん!」
俺がなんとか言い訳を展開しようとした時、いきなり父が大声を発したので俺は言葉を飲み込んでしまい、全員がそちらを見やった。
山崎先輩は手に持っていたサングラスをかけようとしたところだったが、手を止めた。
「短い期間だが、潤ちゃんの弟子入りを許そう! バカ息子を鍛え直す必要もあるからちょうどいい! しかし、今日はもう休め。その様子では肩が万全ではあるまい。本当の稽古は明日から始めるとしよう。では今日は解散だ」
勝手に、一方的に話を進めた父が脱ぎ捨てていた服を拾い上げて窮屈そうに着ると、愉快そうに大笑いしながら道場をのっしのっしと出て行った。
その場に取り残された形の俺たち三人はしばらく無言で顔を見合わせていた。
幸坂先輩はホッとした顔つきでも、山崎先輩は自分の闘争心のやり場を失って不機嫌の極みだった。
「そういうこと、らしいです」
俺は俺で一安心しながら状況をまとめるつもりで言ってみたが、なるほど、と山崎先輩が言う。
その口調に含まれた納得の成分に、幸坂先輩が、どういうこと? と首を傾げていた。俺も不可解なものを感じたが山崎先輩は勝手に納得すると、道場を出て行こうとする。
慌てて俺と幸坂先輩が続くが、山崎先輩の歩調に迷いはなかった。
そのまま客間へ戻ると、加賀原先輩、幅沢先輩と満月、藤吉先生がここまで運んできた機材を準備していた。
彼らは彼らで何かやることがあるようだ。
満月が俺たちに即座に気づいて、不安そうな顔で席を立ってやってきた。
「どうだった? 藤吉先生に止められて、道場へ戻れなくて」
「ああ、うん、その」
どう答えればいい?
山崎先輩がやる気になり、父が急にやる気をなくした、と説明しても通じない。
もっとみんな、わかりやすく行動して欲しい。
「どうかした?」
満月が悪い想像をしたようでやや青い顔になって俺を見るので、安心させるには笑って見せるしかなかった。
「明日から特訓になると思う。満月は関係ないと思うけど、俺と山崎先輩は父さんと行動だな」
「行動って、山崎先輩の肩はもう大丈夫なの? とてもそうとは思えないけど……」
「たぶん、大丈夫だろう。本人がそう言っていたし、幸坂先輩も最終的には許したようだから」
俺と満月が視線を転じた先では、山崎先輩と幸坂先輩、そして加賀原先輩が顔を突き合わせて何かを話し合っていた。
三人ともが真剣で、その様子は魔法技専では見たことがない光景だった。
そもそも三人が直接に話し合っている場面は初めて見るのではないか。
「山崎先輩のことだけど」
満月が俺だけに聞こえるような声量で言った。
「どうしてサングラスを外したのかな」
俺にもそれは疑問だった。
いつもいつもサングラスをしていたのに、父を前にした時だけそれを外した理由はなんだったのか。
そういえば、道場に戻ってきたときにはサングラスをかけ直そうとしていた。
父を殴りに行くとき、サングラスを外す理由があったのだ。
だが、次に殴り合いをしようとした時はサングラスをかける気になった。
さっぱりわからない。
「何かわかる?」
満月にもわからないようだ。
俺は首を左右に振って、じっと山崎先輩たち三人を見たが、三人とも話に夢中で俺の視線に気付いていない。満月も同じ方を見る気配がして、俺はひそひそと言葉にした。
「さあな、俺にはわからないよ。本人に聞くしかないかな。あまり重要でもないかもしれないけど」
そんなやり取りをしているところで、急に藤吉先生が「サボってないで手伝って!」と声をあげた。
それで俺と満月の会話も、山崎先輩と幸坂先輩と加賀原先輩の三人の会話もバッサリと断ち切られ、めいめいに作業に向かうことになった。
俺もまだバンから下ろしていなかった機材を運んだり、セットしたりした。
どういう機材かわからないものが多いけど、魔力波動を検出したり、魔力回路の稼働率を把握するためのセンサーのようだ。
その複数台のセンサーを稼働させ、情報を処理する演算装置と記録装置、大型バッテリーなどが付属している。
とにかく機材が大きく重いので、魔力回路の恒常的な影響のおかげで基礎体力が上がってる俺と山崎先輩は主な荷物を運び手だった。
藤吉先生が幸坂先輩や加賀原先輩に作業させたのは、嫌がらせだったと確信した。
途中、俺はバンのそばで山崎先輩と二人きりになったので、思い切って質問してみた。
「どうしてさっき、サングラスを外したんですか?」
誤魔化されたり拒絶されるかと思ったが、山崎先輩はあっさりと答えてくれた。
「外してもいいかな、と思って」
外してもいいかな? どういう意味だ?
「外してもいいかなって、外す時に何か基準があるんですか?」
「基準? そうだね。あるかな。それは別の言い方をすれば」ちょっと山崎先輩が笑みを浮かべる。父を前にして見せた肉食獣を連想させる好戦的な笑い方だった。「あの時は、相手を殴り倒しても許されるかなって思った」
あまり、聞きたい理由でもなかった。
暴力を解放したい時にサングラスを外す、という意味だろうか。
「一応、先輩が殴り倒そうとしてるのは俺の父親ですけど、殴り倒すつもりですか?」
当然、と山崎先輩が応じた。
「あの体格や動きを見れば、簡単には殴り倒せないと思ってた。実際、殴り倒せなかった。まぁ、もうちょっと通用する気もしたけど、それはこれからわかるでしょう。こっちも本気にならないとダメってことはもうわかった」
それは、と俺は恐々と問いを重ねた。
「先輩はサングラスを外した時が本気ってことですか? サングラスをしている時が本気だと思っていました」
「そんなに大きくは変わらない。ただ、サングラスをしている時の方が動きには余裕があるかな。誤差かもしれないくらいだけだけど」
ちぐはぐじゃないか。
「じゃあ、サングラスをした方がいいと思いますけど、違うんですね?」
まあね、と山崎先輩は軽い調子で応じた。
「でも、サングラスを外した方が自由だから。きっと、私の本気はそっちの方にあるんでしょう」
色々なことが俺の頭を巡った。
自分が全力を出せない方に、本気がある。
つまり、今は本気は隠れている、という意味だろうか。
それは考えすぎなのか。山崎先輩の言葉遊びに翻弄されているだけか。
大滝先生は、山崎先輩が自身の中の怯えを抑えるためにサングラスをしている、という趣旨のことを俺に言った。
ということは、サングラスがある方が力が出るというのが道理だ。
でも山崎先輩は逆の解釈をしている。サングラスがないときの方が、力が出ると思っている。
矛盾している、食い違ってる気もするが、俺に理解できるはずもない次元の話かもしれない。
大滝先生も山崎先輩も、俺ほど単純な理屈で思考していない可能性がある。
そして人間の心や感覚、魔法のようなものも複雑で難解なのだ。
唯一確かなことは、山崎先輩のことは山崎先輩が一番知っているということだ。
俺は山崎先輩に注目すると決めた。
そこに答えのようなものが何かの拍子に、出現するかもしれない。
二人でそれぞれ機材を運び込んだところで、母がやってきて女性陣に料理を手伝ってくれるように声をかけた。
これに合わせて藤吉先生の指示で満月と山崎先輩、幅沢先輩はそちらへ行ってしまった。
機材のセッティングは幸坂先輩と加賀原先輩が引き継いで、残った荷運びは俺一人でこなした。
山奥でも夏は暑い。
汗だくになりながら機材を運ぶ俺に、ふらっと戻ってきた藤吉先生がグラスに入った水を用意してくれた。
グラスに氷が入っているのがありがたい。
この田舎には自動販売機もなければ、コンビニもない。ちなみに、ペットボトルは捨てるのが面倒だと言うのが母と祖母の主張である。アルミ缶やスチール缶やガラス瓶は金になると言って歓迎する。
ぐっと立ったまま水を飲み干して氷を口に含む俺に、面白いところだね、と藤吉先生が愉快げに言う。
もちろん、コンビニやペットボトルが存在しない環境のことを言っているんじゃないだろう。
ちょうどいいと判断して、俺は藤吉先生に疑問をぶつけた。
「藤吉先生は何かを知っていましたね? 俺の実家を合宿の場所に選んだのも、何かを企んでましたよね? 例えば、父さんのこととか先に知ってましたね?」
頬に氷を寄せてもごもごしゃべる俺の言葉に、どうかなぁ、と逃げようとする。
それを許さないために、俺は別の切り口からちょっと嫌味を言う気になった。
「どうして料理の手伝いに行かないんですか?」
ああ、と藤吉先生の目つきが剣呑になる。
「私が料理ができないと思っているな? 私だって毎日、レトルト食品を温めるくらいの料理はしている。料理ができないわけじゃない」
それを料理ができないというはずだったが、認識に差があるようだ。
「じゃあ、なんで戻ってきたんですか?」
「それは幸坂くんたちの様子を見なくちゃね」
「つまり、料理が苦手で逃げたんですね? 苦手というか、できなくて」
そうでもないんだよなぁ、と答えてから空のグラスを受け取る藤吉先生は楽しそうだった。
「これでも管理者として医者の資格も持っている。わかる? メスでちょっとした手術とか、一流の外科医並みの腕前なわけ。どう? それでも料理できないと言える?
「言えます」
「言うねぇ!」藤吉先生はその場でくるりと回ると、母屋の方に引き返しながら言った。「でも私が料理すると、大抵のものは不味くなるとは言われる。ハチ、ここで試してみたい?」
やめておきます、と答えると、それがいいね、という言葉を残して今度こそ藤吉先生は母屋のほうへ消えていった。
結局、無理やり逃げられたか。
いったい、どこまでが藤吉先生の計画通りだろう。
山崎先輩と父をぶつけるのは、ありえそうなことだ。
強い日差しに目を細めて汗を拭うと、俺はまだ残っている正体不明の機材を抱え上げた。
明日からはまた別の意味で、過酷になるだろう。
むしろ、今日の方が楽かもしれない。
やれやれ。
(続く)




