84 歓迎
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俺はどうにも早く目が覚めてしまい、支度をして走りに出た。
半年ぶりに戻った実家を出て、前も走っていたコースを進んでいく。
山間の道で、丘を回り込むように道が出来ている。半年前からアスファルトは傷んでいたが、この半年で余計に荒れているのがわかる。
自治体の手が入らないほど田舎だから、仕方がない。
決めているコースはおおよそ一時間で一周でき、予定通りに帰宅できた。母屋に入る時に「ただいま」と声をかけるのが変な気がしたけれど、無意識に言葉は口をついていた。
しかし返事はない。そうだった、こういう家だと思い出した。
母屋の二階の自分の部屋に入り、着替えてから一階へ降りたけれど母の姿も祖母の姿もない。
客間だろう、とそちらへ向かうと例の大きな部屋から布団が片付けられ、みんなが食事の最中だった。
そこにいるのは藤吉先生、山崎先輩、幸坂先輩、加賀原先輩、幅沢先輩、満月、そして母と祖母である。
つまり勢揃いである。こちらがどうも、勝手に行動したようだ。
「おはようございます。留守にしてすみません」
念のために謝罪したけれど、既に食事の場では会話が盛り上がっていたので、俺の言葉は自然と受け流された。ありがたいことだ。
こちらへおいで、ハチ、と祖母が空いている席を示し、すぐ朝食を用意してくれた。
白飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、野菜の煮物とお浸し、というようなメニューである。母と祖母の料理は久しぶりだけど、一口食べただけで強烈な懐かしさがやってきた。
「ハチ」母が声をかけてくる。「食べ終わったら、お父さんのところへ行ってあげなさい。たぶん、いつもの辺りをうろうろしているでしょうから」
「わかった。何か持っていく?」
「握り飯を用意しておいたから、それを持って行ってあげて。ハチが戻ってくることも、お客さんが来ることも話しておいたから、すぐに近くにはいるはずなんだけど」
了解、と答える俺に、藤吉先生と満月、幅沢先輩が不思議そうな顔をしている。他の三人は食事に気を取られているようだった。
「あの」藤吉先生が代表するように質問した。「ハチのお父さんは、どこへ行っているのですか?」
ああ、と母が笑みを見せる。事情を知らない人がいるのを失念した、という表情だ。
「ちょっと山に籠っているだけですよ。いつものことです」
「いつも山籠りしているのですか?」
変な風に藤吉先生が踏み込んでいくのに、不審げな顔つきで満月と幅沢先輩が俺を見た。説明するのは難しい。
母と藤吉先生の話は先ヘ進んでしまう。
「裏山に籠っているのですか? そこに何かあるのですか?」
「裏山というか、この辺りは全部、山ですからねぇ。山にあるものは、他と変わりませんよ。特別なものはないんです」
「山籠りというのは、例えば、トレーニング?」
ほほほほ、と俺には見せない笑い方をして口元を隠しながら母が応じる。
「本人はそうは思っていないでしょうけど、はたから見ればトレーニングかもしれませんね」
そんなやり取りの間に俺はさっさと食事を済ませて、席を立った。
まだ満月と幅沢先輩が何かを問いたげにこちらを見ていたが、狙い澄ましたように藤吉先生が「私たちが何か、お役に立てることはありますか」と言い出したので、二人は発言を引っ込めてそちらに注意を向けていた。
俺は一度、台所へ行って以前と同様に用意されていたおにぎりの包まれた風呂敷を回収した。
包みを手に外へ出たが、他の人たちはまだ食事の最中らしい。
父親の奇行の説明は、本人がいた方がやりやすい。
俺は家の裏手へ出てから、山に分け入った。
ただ木立に分け入ったのでも藪に踏み込んだのでもなく、少し前に明らかに人が分け入った痕跡があったので、そこを選んだのだ。
木立の中のわずかに草が寝ている程度の差だが、他に人の存在を示す手がかりはない。
どんどんと草をかき分けて進むうちに、足元の痕跡はほとんど消えてしまった。
それでも地面に転がる何気ない枝が踏み折られているとか、そんな些細な痕跡を頼りに先へ進んだ。
どれくらい山を登ったか、すぐにはわからない時間が経った時、すぐそばで何かの悲鳴が聞こえた。
悲鳴は悲鳴でも少なくとも人の声ではないし、あの父親の野太い声とは似ても似つかない。
音がした方に進むうちにいよいよ木の密度が上がり、もう周囲は見通しが悪くなるほど樹木が生い茂っている。
人の手がほとんど入っていないせいだが、生えている木の幹が一定以上に太いあたりは、以前は人の手が入っていたことをうかがわせる。
その木立からこちらへ近づいてくる影があった。
かなり上背があるけれど、見慣れているので驚くことはない。何も知らない人間が見れば、クマでも歩いてきたかと誤認したかもしれない。
ついでに言えば上背がある上に、何か大きなものを肩に担いでいるのでシルエットはとても人間には見えない。
相手の方もこちらに気づき、ニヤリと笑ったので口元にいやに白い歯が覗いた。木立は薄暗いのに口元が光ったのは不思議な現象だが、この程度の違和感を気にしていても仕方がない。
野太い声が響いてくる。
「なんだ、ハチ、俺を迎えに来たのか」
「まあね。その様子だと、帰るところだった?」
そうだな、と父が笑いながら、肩に担いでいるものを手でバシバシと叩いた。
どこからどう見ても、イノシシだった。そのせいで輪郭がおかしなことになっているのだ。
イノシシはかなり大きい。重さは一〇〇キロではとても足りないだろう。普通の人間が軽々と担げるサイズではないが、この人物の異常性からすればまだ普通の範疇である。
のしのしと目の前に来た父からは、汗と垢の匂いが漂う。
「今日はこれからイノシシ鍋だな。新鮮だから美味いぞ」
「それは期待しているけど」俺は自分が進んできた道があるはずの背後を見た。「帰り道は遠そうだ」
「お前の目も甘くなったな。すぐに戻れる道がある。ついてこい」
なんでもないように歩き出す父の背中を追っていくと、こちらが何か言う前に父の方から声をかけてきた。
「どうだ、学校は? 面白いか?」
どう答えればいいのか、難しい質問だ。
「まあ、おおよそ面白いかな」
「他の奴に負けたりしていないだろうな?」
これもまた、難しい問いかけだ。魔法技専は別に勝負が全ての場ではないのだが、誤解されているというより、質問した人間が勝敗でしか物事を捉えないだけである。
「負けてはいないけど、試合では負けた」
正直に答えると、ピタッと足を止めて父が振り返った。
そうなるよなぁ。
こちらを向いた顔には、明らかな苛立ちがあった。髭も剃っていないし、髪も伸びているし、全体的にクマのような風貌をしているので何かのモンスターみたいだ。
慣れている俺でもやや怯みそうになる。
「負けてはいないよ、負けてはいないんだってば」
「じゃあ、どうして試合に負けた」
「反則負けだよ」
俺は父が歩き出そうとしないので、観念してその場で模擬戦での事故について簡潔に説明した。
どうやら、学校から何の通報もなかったらしい。
全部を聞くと、父は引きつったように笑い出した。
「そいつは傑作だ。よくやった」
「よくやったって……。やっちゃいけないことだよ」
「いいや、それくらいしてもらわなくちゃな」
「いやいや、そういうことを言っちゃいけないんだって」
父親はやっと歩き出しながら、背中を向けたまま言葉を続ける。
「都会育ちのもやしっ子なんて、何人でもぶちのめしてやれ。それが教育というものだ」
「いや、俺は教育する側ではないし、ぶちのめすのは無しだよ。こんな山奥じゃないんだから」
そういうお上品なことを言うな、と父が言ったところで、少し視野が開けた。
細い川に出たようだ。父は緩やかな斜面を降りて、その川に沿って歩き出した。せせらぎが涼しげだが、もともと木立の中なので空気は心地いい程度に冷たい。
少し進んで、やっと俺も山のどこに自分がいるかわかってきた。実家にいる時は数え切れないほど歩き回った山である。記憶は残っている。
しばらく川沿いに下れば、あとは小さな峰のようなものを超えると家のそばの舗装した道路に出る。
「息子が立派になるというのは、楽しいものだ」
父はそんなことを言っている。
実際にはまったく立派になっていないし、父はどうやら変な形を立派と勘違いしている。
それと、嬉しい、ではなく、楽しい、と表現するあたりにこの人の悪質さがある。もっとも、本人に悪意はまったくないのだけど。
変な価値観の人だと改めて感じているところで、峰に向かう目印が見つかり、二人で斜面を上って川から離れた。
少しの間、斜面を登ると今度こそ視界が開け、斜面の下に道路と建物が見えた。
(続く)




