35 訓練
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俺は第十六グループの実習室で、壁に向かって構えを取っていた。
壁には俺が勝手に設置した紙が貼られていて、その紙には円が描かれている。ほんの小さな、直径5センチの円である。
俺はそこから五十センチほど離れて立って、拳を繰り出しては元の姿勢へ戻るという動作を繰り返している。
拳は壁には届かないけれど、比較的近い位置までは届く。
特に誰が指示したわけでも教えたわけでもない訓練だが、俺は時折、立ち位置を変えたり姿勢を変えたりして、どんな位置、どんな姿勢からでも的の中心に拳を繰り出すことを意識して一回ずつ、丁寧に動作を確認した。
一人ではこんな意味不明な訓練をするしかない、というのは不服と言っていい。
授業の中ではいい加減、例のひょろりとした教官が俺につきっきりで格闘技を指導していた。
明らかに他の生徒からは不満が出ているが、教官もう俺を他の生徒に当てようとしなかった。怪我人が出ると思っている節もある。
それでも、教官の指導を思ったように受けられなかった二年生からの俺への憤懣には、教官があまりに平然としているので俺の方こそ困ってしまう。
俺が教官を独占したのが理由でもないだろうが、教官はいつからか二人になった。
それがすぐに三人になり、四人に増えた。
他の生徒が教官に徹底的に指導を受ける一方で、俺の状況も変わった。
俺の相手をする教官が一人ではなくなったのだ。
二人がかりでの交代制になったのである。
俺は余裕がないどころか、限界まで体も頭も使う必要が出てきた一方、他の生徒たちからの不満はやはり充満していた。俺だけが特別扱いなのは俺が望んだことではないとはいえ、ありがたいことだと俺は歓迎する気になった。少なくとも指導に不満を感じることはないのだし。
教官たちはとにかく多様な技を使う。
どうも元々はどこかのプロの格闘選手だったのではないかと思わせるほど、技術も経験も十分だった。ついでに十代の俺よりも格段に体も仕上がっていて、今すぐに第一線に戻っても問題ないように感じるほど力強く、タフだ。
そんな教官も少しずつ俺に対して容赦がなくなり、何度かは受身が取りづらい姿勢で床に叩きつけられたし、締め落とされそうになったこともある。
それでも文句を言える立場ではないし、言っても仕方がないので黙って受け入れた。教官は教官で、非常にラフに「すまん」程度の謝罪しかしない。あるいは確信犯かもしれなかった。
たまに考えるのは、同じグループに行使者候補生の上級生や一年生がいたとしたら、俺はどうしただろう、ということだ。
きっと俺は本気で授業にぶつかっていっただろう。
手を抜く、というか、加減することが苦手なこともある。
そもそもから親父から謎の格闘技を習った過程で、親父は俺に手加減なんてしなかった。
気を失ったり、体を痛めることも多かった。骨折したこともある。
そこまでやったらさすがに虐待か、虐待を疑わるだろうと思うのは何も知らない人間だ。そんな善人や善意が存在しない場所がこの世の中にはある。
というわけで、俺は昼間は授業で死ぬほど体を動かし、夕方からは実習室で壁を相手に細かな感覚を確認しているのだった。
山崎先輩は最初こそ壁に向かう俺を笑って眺めていたものの、時間が経つうちに飽きたらしく、何も言わなくなった。
体良く、俺は放置された。
少しは何か教えて欲しい、と山崎先輩に対して思っても、俺はここでも無言でいた。
山崎先輩が相手を傷つけ、おそらくその後の人生に重大な影響を与えたのは俺も知っている。
それがどれだけの重荷かは、想像するしかない。俺は当事者ではない。
その重荷がどれほどのものかを問いかけるのは、違うだろう。
その苦しさを聞いたところで、それを体感するのは山崎先輩であり、その苦しみをどう解釈するかも山崎先輩にしかできないことだ。
俺や周りにいる人間があれこれと意見をするのも違う。山崎先輩の問題は山崎先輩だけが理解し、山崎先輩だけが解釈するものであって、周りにいる人間は何もできないし、関与してはいけないというのが俺の意見だ。
そう考えているので、山崎先輩の気持ちからは距離を取っていた。
何かを教えて欲しいという態度さえ見せないように気を使ったわけだが、今度は山崎先輩はそれを嫌がっている向きもある。俺を眼中にないというように無視する態度、黙っている様子は、そういうことなのではないか。
どちらにせよ、俺や満月のような存在は、山崎先輩にはうざったいのは間違いない。
俺たちは山崎先輩に、不快な思い出を想起させていているはずだ。
これは想像だが、山崎先輩の世界は閉じていると言っていい。捻れてもいる。メビウスの輪のように、複雑な気持ちが複雑な弧を描いてどこへも行けずに回り続けている。
それは幸坂先輩にも言えることだった。
幸坂先輩はもっと穏やかで静かだけど、やはりどこかに閉じているところがある。
人の人生を変えるというのは、それくらい重いことなのだと二人を見ていると認識できる。
俺に今できることは、壁に拳を向け、集中することだった。
不意に通路とを隔てるドアのロックが一つだけ解除される音がした。
今、実習室には俺一人しかいない。山崎先輩はまだ顔を見せていなかったし、幸坂先輩は俺より先に来ていたが、ちょっと買い物に行くよ、と言って出て行ってしまった。
だからこの時、俺は幸坂先輩が戻ってきたと思った。
それなのに、普段は聞こえるはずのドアの残り二つのロックが外れる音が聞こえない。
ガチャガチャとドアノブをまわす音がした後、インターホンが微かに鳴った。少し前に不便だからと満月が修理したのだが、完璧には程遠い。
しかし、鍵を開けて入ってこないということは、幸坂先輩ではないのか?
じゃあ、誰だろう。今まで、第十六グループを訪ねてきた人はほとんどいない。
俺は壁際から離れて畳から降りると、靴をつっかけてドアへ向かった。その間にも何度もインターホンが鳴っている。掠れたような音が連続する。
俺は内側からドアノブを捻り、ドアを開けた。
「なんだ、誰もいないかと思った」
ドアの向こうに立っている女性は、今日はなんというか、水兵のような服を着ていた。白地に青い線の入ったセーラー襟の服を着ている。それに白に青い線が入ったスカートを合わせていた。
小柄で、髪の毛は今日は二つ結びになっていて幼さを強調しているのかもしれない。
知らない相手ではなかった。
「藤吉先生でしたか」
教官の一人である藤吉聖羅である。彼女は小さくを肩をすくめた。
「カードキーを忘れてね、ドアを開けられなかった。入っていい?」
どうぞ、と場所を譲ると藤吉先生は軽い足取りで室内に入ってくる。結ばれた髪の毛がぴょんぴょんと跳ねる。
各グループには顧問が配置されていて、一つのグループに二人の顧問がいる。
第十六グループの顧問は、藤吉先生ともう一人、大滝幹二という先生である。ちなみにどちらも武闘派ではない。
「また壁に向かっていたわけ?」
藤吉先生がにこにこと笑いながら言う。
「ええ、まあ、他にやりようもありませんから。あ、コーヒーを用意しましょうか?」
「ありがとう、濃い目のブラックがいいかな。お菓子は何かあるの? 潤ちゃんが何かまた、溜め込んでいるんでしょう?」
「さっき見た感じでは、ベビーシューが大量にありましたね」
話している間に藤吉先生は幸坂先輩が使っている製図台に歩み寄っている。
「ベビーシューね。ちょっと分けてもらいましょう。少し減ってもバレないでしょうし」
「了解です」
俺はインスタントコーヒーを用意して、まずマグカップを先生に手渡した。先生の手は製図台に伸びて指先で側面に触れるとスリープモードになっていた製図台が起動した。
どうやら製図台に認証される指紋が何人か登録されていて、そのうちの一人が藤吉先生なのだ。俺と満月は含まれていない。含まれるわけもないけれど。
先生がしきりに製図台を見ている間に、冷蔵庫の中にあるコンビニで買ってきた袋入りのベビーシューを、一袋丸ごと出しておく。見たところ、五袋以上が詰め込まれていたので、一袋くらいもらっても許されるはずだ。
ベビーシューを持っていくと、藤吉先生が笑顔で礼を言う。
「ありがとう。きみはなかなか、気が利くね」
「普通だと思いますよ。藤吉先生は幸坂先輩に用事ですか?」
「進捗を聞きたくてね。それよりハチは探求者候補生は見つかったの?」
そこはさすがに第十六グループの顧問だから、新入生二人を放置はできないということか。
「満月が探しているようですけど、見つかってはいません。加賀原悠里先輩という人と交渉のようなことをしているようなんですが」
「加賀原くんはそう簡単にはなびかないよ。幸坂くんとか潤ちゃんとはまた違う感じで、偏屈だからね」
「偏屈、なんですか?」
そうそう、と言いながら藤吉先生はベビーシューの袋を片手で器用に開封しようとして、失敗していた。こちらに袋が突き出されるので、受け取って開封してからもう一度、手渡す。
しかし、藤吉先生からすると幸坂先輩も山崎先輩も偏屈という扱いになるのか。年の功、だろうか。
「加賀原くんは意地っ張りだし、その上、根が破天荒だからすぐには協力的にはならないでしょうね。幸坂くんや潤ちゃんみたいに、押しに弱いところもない」
言いながら袋を脇で抱えて、パクパクとベビーシューを食べていく藤吉先生を前に、俺は首を捻っていた。
意地っ張りで、破天荒。わかるような、わからないような。
それより、幸坂先輩と山崎先輩が押しに弱い? どういう意味だろう……。俺と満月を受け入れたことをそう表現しているのか……。
もう少し説明してもらおうとした時、ドアのロックが外れる音がしてドアが開いた。
(続く)




