32 助言
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お疲れ様です、と声をかけながら第十六グループの実習室に入ると、幸坂先輩が一人で製図台に向かっていた。山崎先輩と満月はいない。
この時間に満月がいないのは珍しい。ここ数日は真剣な顔つきで紙の参考書に向き合って、わからないところを幸坂先輩に質問する、という姿勢で実習室に香坂先輩が寮に戻るまで居座っていたのだ。
「なんでも」
満月の不在について確認しようとしたところで、幸坂先輩の方から声をかけてきた。
「毎日、走っているらしいね」
「ええ、まあ……」
どこで聞いたのだろう。見られていたのだろうか。
「恥ずかしがることでもないよ。授業でも走り込みがあるはずだけど、辛くないかい?」
俺は突っ立っているのも違うかな、と思い、ソファに腰を下ろした。幸坂先輩も製図台に向かっていた椅子の向きを変えて、こちらを正面に置いている。
「別に辛くはないですね。自分を追い込みたい、そういう性分みたいです」
「どこも身体に不具合はない? 痛みがあるかと聞いているんじゃないよ。わずかな違和感でも、それが意外に大事になることもあるってことだけど」
「今のところ、何もなさそうです」
それならいいよ、と幸坂先輩はちょっと笑った。
「陸上選手なら一ヶ月に六〇〇キロは普通に走るという話もある。一日に二十キロくらいを毎日走るという計算だけど、きみはまだ十代半ばだし、過度なトレーニングは故障の原因になる。負荷を減らすのも賢明なことだよ」
どうも幸坂先輩は俺を心配してくれているようだった。体のことを話題にしているけど、俺の体の心配というよりはメンタル、精神状態の心配のではないかと感じた。
「そんなに焦っているように見えますか?」
半ば当てずっぽうで言ってみると、幸坂先輩の表情は苦笑いに変わった。
「そういう察しの良さは可愛いとも言えるし、小賢しいとも言えるね。きみはどう見ても焦っているよ。授業での様子も実際には見ていないけど、漏れ聞こえてくる。二年生を圧倒して、教官を独り占めしているとか」
「それは、その通りですけど……」
「一年生はともかく、二年生になれば駆け引きという奴を覚える。訓練で本気を出す生徒はまずいなくなる。だからもっと別の場所で実際の自分のレベルを把握するものだよ。例えば、グループ内での訓練とかでね」
幸坂先輩の笑みが困ったような雰囲気に変わる。
「もっとも、ハチくんには丁度いい訓練相手がいないのが実際だから、ちょっと僕としても申し訳なく思う。ごめんね」
「いえ、それは受け入れています」
「訓練にも色々あると僕も潤を見ていて理解しているつもりだよ。本気でぶつかっていって分かることもあれば、加減して当たっていくことで何かが分かることもあるようだね。それは実際の当人にしかわからないだろうけど、ま、色々と試すといい」
「山崎先輩はどうしていたんですか?」
潤? と幸坂先輩は首を傾げる。
「山崎先輩が一年生の時、ということです」
先輩は斜め上を見上げるようにした。
「僕たちが第十六グループに入った時は、何人か先輩がいたね。だから、よくそこの畳の上で稽古していたよ。僕からすれば最初は殴り合いにしか見えなかったけど、そのうちにそれっぽくなったね。武道というか、武術というか、そう言ってもいいものに洗練されたというかね」
そうですか、と答える俺は、グループ内での稽古は今はありえないとすることにした。外部との接点で、俺は学んでいくしかない。
「潤から聞いているよ」
考え込みそうになっていた俺に、幸坂先輩が言う。
「なんでも、石森さんにそそのかされて、立ち合ったとか」
「立ち合ったというか、山崎先輩が遊んでくれた、って感じです」
遊びか、とくつくつと幸坂先輩が笑う。
「潤は、ちょっと撫でてやった、と言っていたよ。ま、二人の意見を総合すると何が起こったか、わかろうというものだ」
そう言ってから、うん、と幸坂先輩は一人で小さく頷いた。
「潤にあしらわれても気にすることはないよ。彼女はちょっと特別だ。それと、六月の模擬戦はそれなりに勝てればいいと思っていればいい。負けてもいい、と思ってもいいくらいだよ。棄権しても誰も文句は言わない」
「棄権……」
思わず声が漏れてしまった。
現状では俺と満月のチームは探求者候補生を欠いている。だから模擬戦には登録できないし、棄権の可能性が濃厚だ。それでも俺は諦めていないし、満月もそのはずだ。
棄権を避けようとするのは評価の機会を逸することを懸念しているというよりは、第十六グループの体面を気にしている面もあるのを、幸坂先輩はどう考えているのか、気にもなった。でもそんな傲慢なことは聞けない。
第十六グループほど奇異の目で見られているグループもない。それを俺は少しでも変えたいと思っているし、満月も同じことを考えているはずだ。
俺も満月も幸坂先輩や山崎先輩の評価を変えようとしている。
それなのに、もし模擬戦を棄権してしまえば、より一層、評価は悪くなってしまう。
「先は長いよ、ハチくん。もっと気楽にいこう」
釘を刺すような幸坂先輩の言葉から察するに、どうやら俺は相当に焦っているように外からは見えるらしい。
自分で自分が滑稽に思えてくるのは、きっと幸坂先輩の誘導だろう。深刻にならず、笑えるようにしてくれている。そいうところでも上手い管理者候補生と言えるだろう。行使者候補生の御し方を熟知している。
「ありがとうございます」
先ほどとは少し違う気持ちで礼を言うと、幸坂先輩は少し眉尻を下げた。
「感謝されるようなことはしていないよ」
のほほんと笑っている幸坂先輩に、今なら質問できそうだ、と変な勇気が湧いた。
「いつも製図台に向かってますけど、何を作っているのですか?」
「これ? ちょっと知り合いと考案した魔力回路を考えているところ」
「山崎先輩に刻む、中近距離用の魔力回路の改良版ですか?」
「改良版ではなくて、まったく新規の発想だね。だから潤には使えない。潤に既に刻んである魔力回路とは合致しないんだ。属性は近いけど、仕組みが違う」
石森さんには内緒だよ、と幸坂先輩はウインクしたようだけど、それにはちょっと笑えなかった。やや気持ち悪いかも。
ともかく、短い会話でわかったことがある。
山崎先輩に施されている魔力回路は中近距離の戦いを前提としているらしい。先輩が二年生の時の模擬戦の様子を、実は俺も記録映像で念入りに見ているが、その記録とも一致する。
新しい魔力回路が山崎先輩に使えないというのは、既に体に刻んである魔力回路と機能衝突を起こすからで、これは少し魔力回路について学べば想像がつく。機能衝突が起こるのだから、やはり山崎先輩の魔力回路は中近距離に最適化されているということだ。
そしてこれも一つの情報だが、改良の余地がないほど山崎先輩の魔力回路は完成されている。
二年前の段階でそこに到達したとも思えないから、時間をかけて仕上げたはず。なら実際の今の山崎先輩は、当時の山崎先輩のさらに上をいく使い手ということか。身体能力その他は、格段に上昇していると見ていい。
俺と実習室で対峙した山崎先輩は明らかに手加減していたとはっきりした。
山崎先輩は魔法杖を使わずに、体の魔力回路を少し解放するだけで俺を再起不能にできたという確信が持てた。
「また焦っているよ。眉間にしわが寄っている。深いしわが」
さりげない幸坂先輩の言葉に、ですね、と答えて俺は指で眉間を揉みながら思考を切り替えた。
「今日は満月は来ていないんですか?」
「いや、一度、顔を見せたよ」
「またお使いに出したのですか」
それがね、と幸坂先輩は答えながら時計を見た。
「まだ戻ってこないということは、うまくいったのかもしれないね」
「どういう意味ですか? 何がうまくいったのですか?」
「模擬戦を前に探求者候補生がいないとどうしようもないから、ちょっと、提案したんだ。ま、うまく相手が乗ってくるかは、石森さん次第、だろうけどね」
さっぱり、俺には事情が分からなかった。
何の話だ?
(続く)




