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30 技

       ◆



 八一郎の構えは、正直、私にはよくわからなかった。

 いったい、何に由来しているのだろう?

 総合格闘技と言われれば総合格闘技っぽいけれど、私はその方面には詳しくなかった。経験もない。

 少なくとも柔道の構えではないのはわかる。当たり前か。組み合ってから投げに行くような技は格闘技の世界では通用するかもしれないが、行使者同士の戦いでは出番がなさそうだ。そこまでの接近戦は滅多にない。

 なら、八一郎の基礎は空手やテコンドーだろうか。ボクシング、キックボクシングという線もある。

 山崎先輩はというと、まっすぐに立ったままだ。

 構えらしい構えは取らずに、ただ八一郎を待っている。

 カウンター狙いなのが露骨だった。素人の私でも、八一路に先に動かせようとしているのだとわかるのだから、八一郎も不用意には仕掛けない。

 仕掛ける瞬間に隙ができるという発想は私も理解できるつもりだ。相手に拳なり脚なりを繰り出す場面が、意外に不安定なのである。

 予備動作どころか、体が力んだときに、どうしても動きが遅れるという。

 八一郎も何らかの経験があるようで容易に攻めることはなく、少しずつ脚の位置を変えていく。自然、山崎先輩の側面へ回るような形になった。山崎先輩はそれを首の捻りだけで追い、体の向きは変えなかった。

 それどころか、八一郎が真横に来たところで、はっきりとため息を吐いてみせた。

 呼吸を読まれることを意識しないのか?

 八一郎はまさに、その呼吸を意識したんだろう。

 体が動いた。

 もし獣が獲物に飛びかかる場面があれば、目の前の光景はそれと酷似しただろう。

 ただ、私にもその場面が八一郎に主導権があるのではなく、どこまでも山崎先輩の意図したものに見えた。

 八一郎はどう思っただろう。

 八一郎の拳が翻った。

 同時に、山崎先輩が何かをした。

 そう、何かだ。

 何をしたのか、少しも見えなかった。

 気付いた時には前に出たはずの八一郎が一歩二歩と後ろによろめき、足をがもつれてそのまま尻餅をついていた。

 山崎先輩はすでに元の姿勢に戻って、まっすぐに立っている。

 何が起こったのだろう。

 携帯端末で撮影しておけばよかった、と思ったがもう手遅れだ。

 私が驚いて、混乱しているのと同様に、八一郎も驚いているのがわかった。尻餅をついた姿勢で、あんぐりと口を開けて山崎先輩を見上げていた。

 私たち二人の視線の先で、山崎先輩が首を回すようにして、やっぱり退屈そうにあくびをした。

「ま、こんなものでしょう」

 あっさりと感想を口にする先輩に返す言葉がない。

「今、何を……?」

 私がまだ驚きから立ち直れないままで質問しても「当事者に聞けば」と山崎先輩は教えてくれなかった。

 その当事者である八一郎は立ち上がれないまま、胸をしきりに撫でていた。そこを打たれたんだろうか。でも、何で? 拳? いや、拳は届かなかったのではないか……。

 そこまで考えて、急に背筋が寒くなった。八一郎がどこかを痛めたのではないか、ということに思考が及んだのだ。

「八角さん、大丈夫?」

 私の問いかけに、八一郎は返事をせずにまだ自分の胸のあたりを触っている。どうやら負傷したようではなく、何が起こったのか考えているようだ。

 今になって二人の一瞬の攻防で、何の音もしなかったのが私には遅れて意識できた。山崎先輩は畳を踏みしめたわけでも、八一郎を打ち据えたわけでもないのではないか。

 最小限の動作で、最低限の力で八一郎に尻餅をつかせた?

 そんな馬鹿な。

 そんな技術があるとは、信じられない。

「ちょっと疲れたなぁ」山崎先輩が言って、私を見て、八一郎を見た。「やたら眠いし、お腹も空いた。二人とも何か買ってきなさいよ。先輩による指導の料金だと思って」

 言葉がない私に対して、八一郎は素早く立ち上がったかと思うと「何がいいですか?」と確認している。

 立ち直るのが早い気もしたが、私にはわからないことが八一郎にはわかったということなのかもしれない。その認識は、私と是非とも共有してほしい。

 何か甘いもの、という山崎先輩のリクエストを受けて八一郎が部屋を出て行こうとするので、私もそれについていく。山崎先輩は止めるようでもないし、私としては八一郎の意見をすぐにでも聞きたかった。

 二人で実習室を出て、廊下を進むところでやっと声をかけられた。

「大丈夫? どこか痛む?」

 いや、と答える八一郎の声はいつになく強張っていた。さっきまでの調子と少し違う。

 真剣、というか、深刻、というべきか。

「どこも痛まない。どこも痛まないんだよ」

 同じ言葉を繰り返す八一郎は、やっぱり普段より雰囲気が硬かった。山崎先輩に一撃で負けたのが不服なのだろうか。

 自分の弱さにショックを受けているとか、山崎先輩にプライドを傷つけられたとか?

「それなら良かった」私はとりえず、言えることを言うことにした。「怪我したら大変だし、山崎先輩も怪我をさせるのは本意じゃないだろうし」

 違うよ、と八一郎が低い声で言った。

「全部、山崎先輩の想定内なんだ」

「……どういうこと?」

 八一郎が何を言っているのか、私の理解は追いついていない。想定内とは……。

 二人で階段を降りていくが、やけに静かに感じた。その静けさの中で、八一郎の言葉がかすかに空間に反響する。

「先輩はあの瞬間に、全部を見切っていたんだ。間合いとか、打撃の軌道や重さとか、俺の体の勢いや軸まで、全部、見えていた。だから、最低限の力で俺を押し返すことができた」

「できたって……。えっと、押すっていうのは?」

「俺が間合いに入った瞬間、胸を軽く押した。それだけだ。それだけで、俺は尻餅をついた」

 偶然でしょう、とは言えなかった。

 八一郎が真面目に話していることもある。それに実際の現場を見てしまえば、なるほど、八一郎の意見も頷ける。

 魔法は、非物理ではない。そしてさっきは、山崎先輩は魔法の力を使ったわけではないのか。

 純粋な技術、体術ということ。

 でもそれが事実なら、山崎先輩の技量は八一郎を上回っているなんてものではない。はるかに先、もはや達人の域に達しているのではないか。

 八一郎が黙ってしまい、私も黙り込んだ。

 二人で一言も口をきかずに実習棟を出て、そこで少し離れたところにある和菓子屋へ向かうことになった。幻月堂という店で、八一郎がそこでいいかというので、私が同意した形だった。

 また沈黙がやってくる。

 こっそりと八一郎の様子を伺うと、八一郎は腹を立てているようでもあり、何かを深く考えているようでもあった。山崎先輩の動き、自分の動きを頭の中で検証しているのか、視線の位置が時折変わり、どこにも焦点が合わないように見える。

 邪魔をしても悪いという思いで私は黙ってたし、私自身も目の当たりにした光景について、頭の中で吟味していた。

 八一郎の動きは決して遅くはないし、構えからしても経験者だった。

 それを山崎先輩は相手にしないどころか、何も差せないなんて、そんなことがあるのだろうか。経験値の差だろうかとも思うけど、そんな曖昧なものであれほどの差が生じるものか。

 あるとすれば、やはり魔法だ。

 山崎先輩の体に刻まれている魔力回路が、尋常ではない能力を彼女に与えているのではないか、というところまで思考は及んだけれど、推測にすぎない。もしそうだとしても、身体機能が上がれば達人になれるわけではない。

 幻月堂で十分に二人で買い物をして、何を買うかを選ぶときだけはやっと会話になったけれど、店を出てしまえばまた二人とも無言に戻る。

 二人の手元で紙袋がごそごそと鳴る。あまり人気のないところなので、まだ薄明かりの時間でもやっぱり静かだった。

 それにしても、山崎先輩に魔力を回路を刻んだ人は一人しかいないはずだ。

 幸坂先輩である。

 今まで具体的に考えたこともなかった。

 幸坂先輩は実習室にいる大抵の時間、製図台に向かっている。何かの研究だろうと思っていたけど、何かも何も、山崎先輩の能力を底上げする研究なのではないか。

 二年前に山崎先輩が完成されていたとは思えない。もちろん、模擬戦を一年間、全勝するところまで完成していたわけだけど、それからさらに二年が過ぎているのだ。

 一歩も二歩も、先へ進んでいる可能性はある。

 二人は何もしなかったわけではないのだから。

 私の中で、幸坂先輩と山崎先輩が模擬戦を棄権し続けているのは、ある種の贖罪だと解釈されている。それはそれで正しいだろうけど、二人は何もかもを放り出したわけじゃないのだと、八一郎と山崎先輩の一瞬の攻防で確信できた。

 表舞台から去り、目立たないようにしていても、技術を高めている。高め続けている。

 それが贖罪、責任の果たし方なのかもしれない。

 何を考えているのか、私には想像もつかない八一郎は、無言で隣を先へ進んでいく。彼の歩調が早くなる度に、私は少し足を早めて横へ並んでいった。すると八一郎も自分の歩調に気づくようだけど、緩めるのも一時のことですぐにまた早足になった。

 ここで私が遅れてしまうと、私も一人になるし、八一郎を一人にしてしまう気がした。

 何かを言えればよかったけれど、私は何を口にすればいいか、ちょうどいい話題を発見できなかった。

 結局、無言のまま実習室へ戻った。

 ドアのロックを解除して開けるとソファに山崎先輩がいて、こちらをちらっと振り向いた。その向かいのソファにいつ戻ってきたのか、幸坂先輩の姿がある。その手にはいつものマグカップがあった。

 山崎先輩の口元に笑みが浮かぶ。サングラスの向こうにも、もう屈託なく笑みがあるはずだけど、それは見えない。

「いいね、幻月堂か。あそこの苺大福は好物だよ。前に話したっけ?」

「桜餅を食べていたのを思い出して」

 八一郎がそう答えるのに、後輩の鑑だな、と言いながら何度も頷いて紙袋を受け取る山崎先輩は、先ほど八一郎と向かい合った人、一瞬で八一郎を退けた人と同一人物とは思えない。

 私は意味もなくため息を吐き、自分の紙袋をローテーブルに置いた。

「どうしたの? 石森さん」

 幸坂先輩が気を利かせて確認してくれるのに、いえ、としか答えられなかった。

「ちょっとショッキングなことがあったんだよね?」

 そんな私に山崎先輩がからかいの言葉を向けてくるけど、やっぱり答えることができなかった。幸坂先輩が珍しく困惑しているあたり、山崎先輩は何があったか話していないんだろう。

「ショッキングなことって、なんだい、潤」

「ま、先輩の威厳を見せたってこと。いつも食って寝てるだけじゃない、ってね」

 幸坂先輩が少し眉をひそめてから、八一郎の方を不安げに見やる。

 この時、八一郎は笑みを見せたようだった。その横顔が私からもちらっとだけ見えた。

 ただ、普段とは少し違う笑みのようでもあった。

「ハチくん?」

「ええ、山崎先輩の言った通りです」

 その八一郎の言葉に、幸坂先輩も一旦は追及をやめたようだった。その向かいでは山崎先輩が、苺大福はやっぱり美味いなぁ、などと言いながら両手に苺大福を持っていた。もう口の周りに白い粉が盛大についている。

 この締まらない人が正真正銘の達人級の使い手だとは。

 逆に、変な凄みがある……かな……。




(続く)

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